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<title>大岡山日記</title>
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<modified>2010-09-12T05:30:40Z</modified>
<tagline>梅室が日々大岡山で過ごしながら思うこと・考えることを書き留めたものです。コメントはいつでも歓迎です。どんなことでもお気軽に書いて下さい。</tagline>
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<title>タイでおもったこと2</title>
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<summary type="text/plain">タイの果物を食べてみて感じたのは、あんまり甘くないなあ、ということだった。</summary>
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<![CDATA[<p>タイの果物を食べてみて感じたのは、あんまり甘くないなあ、ということだった。日本で食べるマンゴーやスイカの方がずっと甘い。でも考えてみれば、それは甘い果物が好きな日本人のために、日本や外国の農家の人々が何十年もの間一生懸命甘い果物をつくる努力をし、商社の人が甘い果物を見つけて流通させる努力をしたからかも知れない。タイの人は「これがマンゴーの本当の味なのに、日本人はわかっていないなぁ」と思っているかもしれない。ちょうど、外国で砂糖やハチミツで甘く味付けされた「日本茶」が売られているのを見て「外国人はお茶の味を知らないなぁ」なんて日本人が思っているように。</p>

<p><img alt="Fruits in a cafeteria in a Thai university" src="http://www.umemuro.net/umemuro/diary/FruitsS.jpg" width="200" height="150" /></p>]]>

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<title>タイでおもったこと1</title>
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<modified>2010-09-12T05:19:09Z</modified>
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<summary type="text/plain">私が台湾やタイを旅してとても居心地良く感じることがあるのは、もちろん食や行動規範など共通する文化が流れているからという理由もあるのだが、さらにもうひとつ、多分「昔の」日本をそこここに見いだすからだろう。</summary>
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<![CDATA[<p>私が台湾やタイを旅してとても居心地良く感じることがあるのは、もちろん食や行動規範など共通する文化が流れているからという理由もあるけれど、さらにもうひとつ、多分「昔の」日本をそこここに見いだすからだろう。例えば今回泊まったホテルのメインダイニングで、ある朝テーブルにあった砂糖入れの中にアリがわらわらと歩いていた。最初はゲッと思ったが(そしてもちろんタイでもまずいことだと思うのだが)、しばらくそれを眺めているうちに思い出した。そういえば私が子供のころ済んでいた木造の平屋の家ではやはり多量のアリが家の中にやってきて、母がアリ退治に精を出していたっけ。</p>

<p>日本もほんの少し(もう私が生きていたくらい)前には、限られた環境の中で人は懸命に生きていた。私が生まれる前は、もっとそうだろう。今の子供たちが想像できないくらいに生活環境が厳しかったから、人はもっとお互いを見守り、助け合っていた。今の東京のように、他人を蹴落として自分だけが多くの金を稼いで自分の家族だけがいい暮らしをすることだけしか見えていない人間は、居なかったとは言わないが少なくとも今よりずっと少なかった。道ですれ違うタイの人たちの、「外国から来た全くの他人」に向ける笑顔もまた、なんとなく「昔の日本」を思わせるのである。</p>

<p><img alt="Flower Decoration in Thailand" src="http://www.umemuro.net/umemuro/diary/FlowerS.jpg" width="200" height="150" /></p>]]>

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<title>キセキ</title>
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<modified>2010-03-01T13:10:55Z</modified>
<issued>2010-03-01T12:55:29Z</issued>
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<summary type="text/plain">今年も卒業論文のシーズンが終わりました。私たちの研究室の4年生も全員研究発表の結果合格をもらい、あとは卒業を待つだけとなりました。</summary>
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<![CDATA[<p>今年も卒業論文のシーズンが終わりました。私たちの研究室の4年生も全員研究発表の結果合格をもらい、あとは卒業を待つだけとなりました。</p>

<p>以前にも書きましたが私は研究室のゼミで学生と議論するのが何よりも好きです。そして議論するたびに東工大の学生は優秀だと思うのですが、今年度私の研究室に居た4人の4年生は特別でした。</p>

<p>彼らはひとりひとり全く性格が違い、おそらく方向性も全く違います。良くしゃべる人も居れば割と静かな人も居ます。感性で語る人も入れば緻密なデータと論理で攻める人もいます。カミソリのような感性を持つ人も居れば熱いエネルギーで語る人も居ます。勢いで仕事をする人も居れば、計画的で緻密な仕事をする人も居ます。プログラムの達人も居ればパフォーマンスの達人も居ます。</p>

<p>そんな一見バラバラに見える4人が、一度同じ机を囲んで議論の席に着くと、実に熱い議論を際限なく展開します。とても仲が良くて、それでいて同時に他のメンバーには負けたくない、置いて行かれたくない、という健全な競争心も見え隠れします。彼らに議論を始めさせると私の話す暇がないくらいで、予定通りにゼミが終わらない事もざらです。しかし、あまり困ったことにはならないのです。なぜかというとだいたい彼らがお互いに指摘し合うことは的確で、私が話す必要がないのです。それに彼らのエネルギーに満ちた発想は、とても私と誰かひとりが1対1で話していた時には出て来ないであろう斬新なアイディアにまで到達するのです。困る事はせいぜい昼食の時間が短くなる事くらいです。</p>

<p>彼らが、この4人の絆を大切にしてくれて、10年後、20年後、また4人一緒に仕事をしたら、日本だって世界だって動かせるのではないか。私は本気でそう思っています。そんな4人が1年間この研究室にいて、何十時間やったかわからない議論を一緒にできた奇跡。しかしそれももう終わりです。彼らは4月から、ある意味彼ららしく、4人とも全く違う道を歩み始めるのです。</p>

<p>Party is over. 私はここで彼らがここにいた軌跡である卒業論文を本棚にしまい、次のメンバーを心待ちにしています。彼ら4人がいつまでもお互いの縁を大切にしてくれる事を祈りながら。</p>

<p><br />
<img alt="Yamagishi" src="http://www.umemuro.net/umemuro/diary/20100223YamagishiSS.jpg" width="200" height="150" /> <img alt="Nishito" src="http://www.umemuro.net/umemuro/diary/20100223NishitoSS.jpg" width="200" height="150" /> <img alt="Matsuo" src="http://www.umemuro.net/umemuro/diary/20100223MatsuoSS.jpg" width="200" height="150" /> <img alt="Suzuki" src="http://www.umemuro.net/umemuro/diary/20100223SuzukiSS.jpg" width="200" height="150" /></p>]]>

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<title>「譲られ上手」</title>
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<modified>2009-10-15T08:15:09Z</modified>
<issued>2009-10-15T07:41:10Z</issued>
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<created>2009-10-15T07:41:10Z</created>
<summary type="text/plain">ヨーロッパでは、レディー・ファーストの国なのでエレベータなどで女性と一緒になった時は乗り降りをまず女性に譲る。</summary>
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<![CDATA[<p>ヨーロッパでは、レディー・ファーストの国なのでエレベータなどで女性と一緒になった時は乗り降りをまず女性に譲る。そのとき思う事は、こちらの女性は実に譲られ上手だな、ということである。もちろんレディー・ファーストの文化が定着しているから、何の戸惑いも無く先に降りる。しかし必ず「Thank you.」とひとこと言ったり、こちらを一瞥して微笑んで会釈をしたりするのをまず忘れない。順番を先に譲る、あるいはドアを開けて待つ、ということが、変な言い方であるがどんなに「大変な」ことかということをきちんとわかっているから、それに対する返礼を忘れない。だからこちらも笑顔で譲れるし、また譲ろうと思う。「レディー・ファースト」とは単に順番の取り決めではなく、譲られる人が譲る人の心をきちんと受け止め、それに応える文化、その全体を指すという事がよくわかる。ヨーロッパの成熟した社会で長い歴史をかけて作られた文化であろう。</p>

<p>翻って日本に目を向ける。そもそも我先にドアを目指す人が多い中で先を譲られるなんて事自体が無い、という見方もあるが、エレベータで一緒になった人(男女を問わず)に順番を譲ってみても、「至極当然」という顔で何も言わずにまっすぐ降りる人もいれば、戸惑ってやはり無言で降りる人も居る。戸惑った人を前にすると、譲られる事に慣れていないんだなぁ、レディー・ファーストの文化が日本では定着していないしなぁ、なんてことを思ってため息をついて終わりだが、「至極当然」組と一緒になると、まずかわいそうな人たちだなあ、と思い、一方でもう二度と譲るもんかという気持ちになる。(一方で、お互い顔見知りの日本人、特に仕事上の関係があり何かしらの上下関係が存在する人々が鉢合わせになると、いつまでもお互いに「お先にどうぞ」「いやどうぞどうぞ」が続くのは見方によっては非常に滑稽である。そしてこういう場面でいつも先を譲られる「上の人」が、街に出て一人の市民になってもいつも道を譲られて当然と思っているんだろうな、と思う。かわいそうな人々である。)</p>

<p>非常に些細な事ではあるが、何かをしてもらう時に、その背後にある、それをしてくれた人の心をきちんと理解し、受け止め、それに対して返礼をする。それがあるかないかが、レディー・ファーストのみならず、世の中のありとあらゆる人のインタラクション、そしてサービスを心地良いものとして育て定着させるために必要なことなのではないかと、レディー・ファーストの国で思う。</p>

<p><img alt="Oulu, Finland" src="http://www.umemuro.net/umemuro/diary/SANY1997SS.jpg" width="150" height="200" /></p>]]>

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<title>ヒゲが伸びると筆が進む</title>
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<modified>2009-01-12T15:17:29Z</modified>
<issued>2009-01-12T15:02:41Z</issued>
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<created>2009-01-12T15:02:41Z</created>
<summary type="text/plain">たとえば作家かだれかが、「自分はヒゲが伸びると、筆が進むんだ」と言ったとする。</summary>
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<![CDATA[<p>たとえば作家かだれかが、「自分はヒゲが伸びると、筆が進むんだ」と言ったとする。</p>

<p>それは「地球の裏側で蝶が羽ばたくと…」の類いではなく、本当にその人のヒゲの長さを観察して、さらにその人の仕事量を見ることが出来たとして、その二つの観察を突き合わせると、どうやら本当にヒゲが伸びている時には文章をたくさん書くらしい、ということがわかったとする。</p>

<p>「どうやら本当にヒゲが伸びた時には、筆が進むらしい。」そこまでは問題ない。</p>

<p>ところが、そこから変なことを言い出す人がたまに居る。</p>

<p>「つまりこの作家はヒゲが伸びると、鏡で顔を見るたびに自分が作家として風格があると自信を持つようになり、だから筆が進むようになることがわかった。」とか、</p>

<p>「ヒゲがのびると男性ホルモンの×××の分泌量が増え、それが脳の△△△を刺激して創作活動にプラスに働くようになることが明らかになった。」とか。</p>

<p>正解は、「実はその作家は、公の場に出る必要がなく、自分の家に籠っていられる間はヒゲを剃らない。そして、どこへも出かけず誰とも会わず、家でまとまった時間一人で集中している時に、一番文章の創作に専念できる」というようなものだったりする。</p>

<p>つまり、最初の観察は、共通の原因である「公の場に出ない・誰にも会わない」という事実の結果として出てくる、二つの現象を観測していたにすぎない。共通の原因から生じるのだから、当然相関関係は存在する。問題は、相関関係が観測されたにすぎない２つの事象に、いつの間にか因果関係を勝手に作り上げて、あたかもその因果関係の存在が証明されたかのごとく語っていることである。この例で見られるように、相関関係と因果関係は全く異なる。この場合は「ヒゲ」も「筆が進む」のも、両方とも結果なのである。</p>

<p>「なにをたいしたこともないことを偉そうに」と思う人が多いかもしれない。しかし、実際に身の回りを見ると、それが研究論文であれどこかの会社の調査であれ、本質的にこれと全く同じことをしている、すなわち相関しか明らかにしていないのに、なぜかさも因果関係の存在を証明したかのごとく主張するケースが多々あるのがヒジョーに気になる今日この頃である。</p>

<p>以上、よくある統計分析にまつわる教訓のふりをして、私的な日記を書いてみました。:-></p>]]>

</content>
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<title>否定する</title>
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<modified>2009-01-10T00:35:50Z</modified>
<issued>2009-01-10T00:21:04Z</issued>
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<created>2009-01-10T00:21:04Z</created>
<summary type="text/plain">人はなぜ他者を否定するのだろう？</summary>
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<dc:subject>Diary</dc:subject>
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<![CDATA[<p>人はなぜ他者を否定するのだろう？</p>

<p><br />
否定することは良いところを認めるより簡単だから？</p>

<p><br />
否定することによって逆に自分の価値をアピールしようとしている？<br />
「○○を否定する(センスのいい／ものがよく見えている／勇気のある／ユニークな考えを持つ)自分」というような。</p>

<p><br />
自分の価値システムと違うものを受け入れる(べく自分に納得させるようにあれこれ説明を考える)と認知負荷が高いから？</p>

<p><br />
自分に信念があって、信念と違うものは「正しくない」から？<br />
自分の信念と違うものを否定せずに存在を受け入れると、今まで「正しい」と信じて来た自分の信念を否定されたように感じるから？</p>

<p><br />
自分と異質なものを遠ざけるのは本能？</p>

<p><br />
経験的にひとつ確からしいのは、<br />
「否定したこと」が客観的に見て合理的で正しいケースは、実は稀であるということ。<br />
否定するのは、合理的な理性ではなくて、感情のはたらき？</p>

<p><br />
…なんだ…自分の分野じゃないか…</p>]]>

</content>
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<title>書く</title>
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<modified>2009-01-05T17:00:33Z</modified>
<issued>2009-01-05T16:50:03Z</issued>
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<created>2009-01-05T16:50:03Z</created>
<summary type="text/plain">書くことはつらい。</summary>
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<dc:subject>Diary</dc:subject>
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<![CDATA[<p>書くことはつらい。</p>

<p>頭をひねり出さなくてはならないからつらい。<br />
それ以前に、私の場合、書く「気分」にまで持って行く迄の段取りが大変。<br />
それでいて締め切りにも追われるからつらい。<br />
でも誰かが言った。「締め切りがなかったら、永遠にこれは書かないでしょう？」<br />
多分それは正しい。</p>

<p><br />
書くことは楽しい。</p>

<p>いったん「乗って」しまうと、つらいのだけれども、楽しい。<br />
それは、自分の頭の中で長い時間熟成されて、いいかげん糸を引き始めたような考えの固まりが、<br />
文章というきれいな衣をまとって目の前に現れるから、楽しい。<br />
それは、変なたとえだが、排泄の快楽と通じる物があるかもしれない。</p>

<p><br />
書くことは、やっぱりつらい。</p>

<p>あたまの中で大事に大事にあたためておいた間は、何かすごくすごいことを考えているような気がして<br />
我ながら自信があったりするのだけど、<br />
いざ文章の形にしてみると、考えがたりないところが見えて来たり、どうしてもうまく言葉で表現できなかったりして、<br />
なんだか急につまらない考えのような気がして来て、一気に不安になったりする。</p>

<p><br />
それでもやっぱり、楽しい。</p>

<p>なんだかいろいろあってよくわからないし、すごく疲れるのも事実なんだけど、<br />
でも書いている間は、すごく充実した時間を過ごしている気持ちになるのも事実。</p>

<p><br />
そんなわけで、正月早々(とういうより年末からずっと)、書いています。</p>]]>

</content>
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<title>鏡</title>
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<modified>2008-10-18T10:30:38Z</modified>
<issued>2008-10-18T10:19:01Z</issued>
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<created>2008-10-18T10:19:01Z</created>
<summary type="text/plain">不機嫌そうに怒った顔をしているのは簡単だ。</summary>
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<![CDATA[<p>不機嫌そうに怒った顔をしているのは簡単だ。</p>

<p>文句を言おうと思えば文句を付ける相手は世の中に無尽蔵にあるし、だいたい他者を批判するのは良い点を認めるよりずっと簡単なのだ。(なんでもいい。目の前にあるものを一つ選んで「ケチをつけて」見てほしい。実に簡単に不平不満を列挙できる事に気がつくはず。)<br />
実際、鏡に写る自分の顔をじっくり見ていると、何にも考えていないいわゆる自分のニュートラルな顔が、いかにぶすっとした顔になっているのかに気がついてびっくりする。<br />
それに、不機嫌な顔をしているとだいたい周囲の人は触らないようにほっておいてくれる。誰とも関わりを持たずに、自分だけに籠っていられる。楽であるに違いない。</p>

<p>絶えず微笑んでいる方が実はずっと難しい。</p>

<p>お笑いなど意図して笑うようにしむけられた状況を除いて、まず心がある程度穏やかで平和でないと笑えない。<br />
それに自分の環境 -- 目の前に居る人であったり、その場所だったり、もっと抽象的に自分の置かれている状況だったり -- を自分がある程度好意的に捉えていないと、やはり笑えない。<br />
つまり自分のこころの状態とつねに向き合って、対話をしていないと、微笑む事はできないんじゃないかと思う。<br />
それににこやかに微笑んでいるということは、周囲に対して自分はオープンであるというメッセージを送っている事だとも思う。だから、例えば他の人が語りかけて来る事に対して「Welcome!」と言える準備ができていなきゃならない。自分だけのことを考えているよりは、きっと大変だろう。</p>

<p>でも不機嫌な顔をしている人よりは、微笑んでいる人の方が、確実に周りを幸せにする、と思う。<br />
だから、できるだけ微笑んでいる時間が長い人でいよう。鏡を見ているとそんなことを思ったりする。</p>

<p>水島新司先生の「ドカベン」に微笑三太郎というキャラクターが居て、連載当時彼の座右の銘は「常に心に微笑みを」だと紹介されていた気がする。<br />
今考えてみれば彼はものすごく難しい discipline を自分に課していたんだな、と思う。</p>

<p></p>

<p>(追記)<br />
実は日常鏡をのぞく時間というのはそんなに長くないし、その長くない時間には必ず何か用がある。ひげを剃ってみたりとか、歯を磨いてみたりとか。<br />
だから、たまに髪を切りに行って、文字通り手も足も出ない状態で、自分では何もすることなくただただ鏡に写った自分の顔をしげしげとながめる、なんていう時間は実はめったに無い特殊な経験なのだ。<br />
だから、こんなことを考えついたりもする。というわけで思いついた事を書き留めてみました。</p>]]>

</content>
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<title>バーチャル議員</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.umemuro.net/umemuro/diary/archives/2008/08/post_149.html" />
<modified>2008-08-29T16:40:48Z</modified>
<issued>2008-08-29T15:50:04Z</issued>
<id>tag:www.umemuro.net,2008:/umemuro/diary//2.610</id>
<created>2008-08-29T15:50:04Z</created>
<summary type="text/plain">朝最寄りの駅へ歩いて行くと、珍しく地元議員とおぼしきスーツ姿のにいちゃんとそれをとりまくハッビ姿の人々が、街頭演説の片付けをしている。</summary>
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<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.umemuro.net/umemuro/diary/">
<![CDATA[<p>朝最寄りの駅へ歩いて行くと、珍しく地元議員とおぼしきスーツ姿のにいちゃんとそれをとりまくハッビ姿の人々が、街頭演説の片付けをしている。</p>

<p>へぇ〜、珍しいな。最近は新顔の住民が増えて来ていっぱしの票田になってきたら、顔を売りに来たか？この駅と隣の駅に出来た新しいマンションの住民を押さえれば、区議会くらいは出られるのかな？自分もいっちょ立候補でもしてみるか？しかし自分言う事がけっこうラディカルだからなあ。一度目はインパクト狙いという事で過激なことばっかり言うのも良いかもしれないけど、後になって絶対自分の首を絞めるんだよなあ。同じ一人の顔というか名前というか人格を引きずる以上、そうそういろんなことはできないか。前の人格を無かった事にできれば良いんだけどなあ...</p>

<p>と、ここまで考えて思いついたのがエージェント。今世の中にある人間の職業としてのエージェントではなくて、人工知能なんかの分野で言うエージェントシステム。平たく言うと、自分の代わりにいろんな仕事ーたとえば旅行の手配をしてくれたり、必要な情報を集めてくれたり、秘書とか執事の代わりをしてくれる様なシステム。今でもソフトウェア的なエージェントは研究されていて、ロボット(アンドロイド)的な実体とあわせたものももうすぐ実用化、なんて話を聞くけど、エージェントの性能が十分上がったら、エージェントに議員をさせれば良いのではないだろうか？</p>

<p>そうすれば、与えられた状況と問題について、いつもリベラルな意思決定をしがちなエージェント、福祉重視の意思決定をするエージェント、保守的な右寄りエージェント、いつも過激な事を言うエージェント、穏健派のエージェント、などを作って議会をやらせればいい。今でも複数の意思決定エージェントを同時に動かしてその総意として意思決定をする仕組みはあるのだから、選挙は、今期はどのエージェントモジュールを採用して、各々に何票(=どのくらいの重み)を与えるかの見直しに等しい。議員の人件費も事務所費も視察旅行の費用も要らないし、「選挙の時にはあんなこと言っていたのに当選したら全然違う事をやっている」なんてことも無いだろうし、金もらって口利きなんて言う政治の黒い部分も無くなって(もっともエージェントの機能が十分「高度」になったらわからないけど)、民意を政治的意思決定に反映する、という機能がより純粋な形で実現するのではないか？そして「このエージェントはろくな事を言わないからダメだ」となればいつでもスクラップにできるし。</p>

<p>というわけで、そんな「真の e-議会」が実現するのに十分なほど、エージェントが高性能になるのはいつの日かな〜、などと考えながら電車に乗った。まあ、こういう研究をしている研究者は多分今もちゃんといて、彼らに言わせれば「(技術的には)もうすぐ」なんだろうけど。多分技術じゃなくて、人々がそのシステムを受け入れるまでに時間がかかるんだろうな。</p>

<p><img alt="自転車置き場" src="http://www.umemuro.net/umemuro/diary/20080730Trees43S.jpg" width="200" height="150" /></p>]]>

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<title>What a monkey really wants to CHANGE</title>
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<modified>2008-08-28T05:35:12Z</modified>
<issued>2008-08-28T04:26:28Z</issued>
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<created>2008-08-28T04:26:28Z</created>
<summary type="text/plain">この日記は、1月前に一度書こうと思って、なんとなくお蔵入りさせていたのだけれども、昨日の事件のニュースを聞いてやっぱり書くことにしました。</summary>
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<![CDATA[<p>この日記は、1月前に一度書こうと思って、なんとなくお蔵入りさせていたのだけれども、昨日の<a href="http://www.asahi.com/special/08019/index.html">事件</a>のニュースを聞いてやっぱり書くことにしました。</p>

<p>-----</p>

<p>先月、<a href="emobile.jp/">イー・モバイル社</a>がTVCMで、同社のマスコットであるサルにアメリカ民主党のオバマ大統領候補のまねをさせて、黒人から「人種差別だ」と避難を受けて CM を取り下げた事件が報道された。</p>

<p><a href="http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0807/03/news041.html">http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0807/03/news041.html</a><br />
<a href="http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080703-OYT1T00464.htm">http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080703-OYT1T00464.htm</a></p>

<p>私は、イー・モバイル社はリスクマネジメントという点では不十分だったのだろう、ということを認めた上で、この事件について少し違った感想を持った。</p>

<p>今は「グローバリゼーション」の時代で、情報はインターネットに乗ってどこへでも行く。だから日本人だけでなく世界のどんな人が見ているかわからないのだから、世界のどんな人が見ても不愉快にならないようなものを作るよう配慮すべきだ。そういう理屈なのだろう。</p>

<p>なら質問したい。アメリカで作られている広告・映像・メディアは、世界のあらゆる文化と民族を考慮して作っているのか？その表現は中東のこの文化でどのような意味を持っているのか考慮しているのか？その色はアフリカのこの地域でどのような意味を持っているのか考慮しているのか？その比喩はアジアのこの国でどのような印象を持つか考慮しているか？</p>

<p>私は、アメリカ人(しかも相当教育レベルの高い人々)で、アメリカこそが世界の中心であり、「イラク戦争は世界のどこか辺境で起こっている戦争」と公言している人々を知っている。大方のアメリカ人の認識はこれと同じだろう。アメリカこそが世界の中心。だから、アメリカ国内の人種や文化(「マイノリティ」)には十分すぎるほど気を使う。ではアメリカ以外の国は？考えてもせいぜいヨーロッパ程度だろう。そんなことを考える頭も配慮も無いから中東が、アフガンが、今あんな状況になっているのではないのか。</p>

<p>では世界の国はアメリカをどうみているのか。アメリカの作ったCMでおかしな(あるいは目を覆いたいような)ものがあったとして、その国の人々はどうするか。「またアメリカのバカがあんなもの作って」と思う程度で、相手にしないだろう。なら、なぜイー・モバイルは文句を言われたか？答えは簡単。アメリカ人にとってグローバリゼーションとは全世界が世界の中心であるアメリカのルールを教わってそのルールで動く事であるから、アメリカ人にとって不愉快なものは許されない。それだけである。</p>

<p>従って今回の一件は、またアングロサクソン国家(というよりアメリカ)の傲慢さを世界に露呈させた、それだけのことに見える。</p>

<p><img alt="はやはやくん" src="http://www.umemuro.net/umemuro/diary/change.jpg" width="200" height="150" /></p>

<p><br />
追記</p>

<p>面白い事に、以下の例はアメリカ的にOKらしい。(アメリカのサイトから拾って来たもの。引用元は画像をクリックして下さい。) <br />
まあ、これはあまりに的確に本質を突いているから批判のしようもないか。</p>

<p><br />
<a href="http://politicalhumor.about.com/library/images/blbushourleader.htm"><img alt="Bush Our Leader" src="http://www.umemuro.net/umemuro/diary/bush_ourleaderS.jpg" width="200" height="100" /></a> <a href="http://politicalhumor.about.com/library/images/blbushourleaderchimp.htm"><img alt="Bush Our Leader alternative" src="http://www.umemuro.net/umemuro/diary/bush_ourleader_monkeyS.jpg" width="200" height="91" /></a></p>]]>

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<title>続・Value System</title>
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<modified>2008-08-14T09:37:21Z</modified>
<issued>2008-08-14T09:33:49Z</issued>
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<created>2008-08-14T09:33:49Z</created>
<summary type="text/plain">前回に続き、たぶんに politically incorrect な、素人の勝手な物言いなので、適当に割り引いて読んでください。</summary>
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<![CDATA[<p><a href="http://www.umemuro.net/umemuro/diary/archives/2008/04/value_system.html">前回</a>に続き、たぶんに politically incorrect な、素人の勝手な物言いなので、適当に割り引いて読んでください。(実はこの文章は<a href="http://www.umemuro.net/umemuro/diary/archives/2008/04/value_system.html">前回</a>の直後、4月に書いたものなのですが、ある理由によりしばらく寝かせていました。)</p>

<p><br />
そもそも、いろいろな人と話をしていると「多様な価値観」うんぬんの話自体がアメリカの価値観に他ならないように思える。</p>

<p>「島国」日本では古くは「儒教」や「武士道」など精神的規範が古くから確立していて、長い間それが国民のかなりの割合に共有、尊重されて来たように思える。そういう意味では歴史的に共通の価値観が共有されてきたのだろう。(それがそれぞれの時代局面で良かったことなのかどうかは別として、事実として。)<br />
だから、この数十年の間に急速に外国から流れ込む様々な価値観と「それを認めるべきなんだ」という精神的プレッシャーにとまどう日本人が居てもあまりおかしくない。</p>

<p>一方、ヨーロッパは太古の昔から「移民」の国だ。ヨーロッパ人の言う「移民」は何も恒久的に引っ越してきてそこに永住する人だけではない。数年働いて帰る人も移民。だから移民に関する問題については何千年の歴史を持つ大先輩のはず。ところが、やはり日本と同じくここ数十年、「国外から流れ込む異質な価値観」が社会問題化して、勢いナショナリズムに振れている国が多いような気がする。どうしたんですか? あなた方にとっては移民問題は豊富な経験がある得意分野ではないのですか?</p>

<p>どうも、鍵は "In Rome, do as Romans do." あたりにあるのではないかと思われる。</p>

<p>ローマに来る? どうぞどうぞ。でもローマではローマの流儀でやってね。<br />
そこに合意ができれば、ローマ人がそれほど不幸になるとは思えない。それがたとえ支配関係であったとしても、ヨーロッパでは少なくともそのルールがうまく働いてきた。だから移民とうまくやっていたのではないか。そして、近年その前提が崩れたのではないか、と仮定してみる。</p>

<p>一方アメリカは、歴史的経緯からいって「その国の流儀」そのものが成立し得ない。精々が初期のヨーロッパ系移民がそれぞれの国から持ち寄った流儀の最小公倍数程度しかありえなくて、最初から多数の価値観が共存するカオスとしてしか存在し得ない国。それでも建国以来200年以上経って「アメリカ流」みたいなものができたように見えるけど(そしてそれが例えば近年ヒスパニック系移民との摩擦になっていたりするようだけど)、そもそも「なんでもあり」が文化である国で、しかも移民の絶対数が多いのだから、あってないようなものにならざるをえない。</p>

<p>で、今何が起こっているか。<br />
つまるところアメリカが「われわれは何百年もの間カオスを受け入れてきた。だからお前らも受け入れろ」と言っているということではないか。結局は「グローバリズム」という名のアメリカ式システム、アメリカ的価値観による帝国主義が進んでいるだけなのではないか。<br />
「アメリカに来るならアメリカの流儀で」などと言ったことがない人間が、自分が今度出て行ったときに、出て行った先の流儀を尊重するなどという発想が持てなくても何ら不思議ではない。(だいたい彼らは先住民族を蹴散らした人間の子孫なのだから。)<br />
だから行った先の国の流儀など関係なく、自分たちの価値観が素晴らしく最高のもののように説いて、それでもって世界を「平らに」してしまおう、というローラー作戦が、実は現代急速に布教が進んでいる「多様な価値観を受け入れましょう」運動の本質なのではないか。(ここで断っておくが、多様な価値観そのものに否定的なのではない。現代の「受け入れましょう運動」が、そのような本質をはらんでいるように見えることを疑問視しているのである。) そしてアメリカのMBAや大学あたりで学んできたエヴァンジェリストたちが「アメリカ的システム、アメリカ的価値観は素晴らしい」と声高らかに宣教して回るので、それを聞いてそう信じなくてはならないと自分で自分を説得している人たちが、一抹の不幸を感じる根源なのではないか。</p>

<p>例えば私たちの国に、外国人が来る。そして「自分たちは生活習慣が違うのだから、自分たちの文化を尊重しろ」と言う。でもそんな時聞いてみたい。「ではあなた方は、自分たちが訪れているこの国の文化を尊重しているのか？」と。</p>

<p>　</p>

<p>追記<br />
この議論で注意しなくてはならないのは、少なくとも「公的な活動」と「私生活」の２レベルを層別して考えなくてはならないことだ。例えば外交官が会談する。国際会議を開催する。そこには世界中のありとあらゆる文化と価値観が存在し得て、それらに最大限の配慮が必要であると同時に、そのアドバンテージを最大限活かすべきである。それは企業の経済活動でも、大学の研究活動でも同じことである。それは、そのような「公的な活動の場」が、地理的にどこで開催されているかから離れた(もちろんネット上の活動も含めて)、文化的・価値観的にニュートラルな「場」として恣意的に設けられているからである(少なくとも理想的には)。<br />
ところが、日常の生活では話が違ってくる。人々の日々の生活で、上記のような文化的・価値観的にニュートラルな生活が営めるのはおそらくごく少数だろう。なぜなら、生活=日々の営みは、文化から切り離して存在し得ないからである。だからこの記事のような議論が問題になるのは主にこの「私生活」の部分であり、多くの生活者がとまどい、居心地の悪さを感じつつも「受け入れましょう」プレッシャーの前に沈黙している、と筆者は見ている。</p>

<p><img alt=夏のキャンパス" src="http://www.umemuro.net/umemuro/diary/archives/20080730Trees41S.jpg" width="200" height="150" /></p>]]>

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<title>やらなくてもよいこと</title>
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<modified>2008-07-19T08:04:34Z</modified>
<issued>2008-07-19T07:07:38Z</issued>
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<created>2008-07-19T07:07:38Z</created>
<summary type="text/plain">「これはやらなくちゃいけないんですか？」
こういう質問にしばしば出会います。</summary>
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<![CDATA[<p>「これはやらなくちゃいけないんですか？」<br />
こういう質問にしばしば出会います。</p>

<p>いろいろな context で出て来ますが、多くの場合は、背後に「やらなくてはならない決まりならしょうがないからやるけど、そうでないならそんなことはやらずに済ませたい」という気持ちが入っている様な気がします。</p>

<p>もちろんそれは間違った事ではなくて、やらなくてもよいことをやらなくても責められないし、それでペナルティも無く損もしないならやる必要はない。やらずに済ませてもっと別のこと -- 楽しい事や有意義な事 -- に時間を使いたいという場合もあるでしょう。だからそれ自体は別に問題はない。</p>

<p>ただ一方で、最近よく思う事は、「実は、本来その人がやる義務もなく直接得にもならないことを、何らかの考えや信念でやるべきだと考えて、それをやる人が一番偉いのではないか」ということです。</p>

<p>例えば、近くの海に住むある生き物が絶滅しそうだ、と知ったとします。もちろんそういう生物の保護を本来の職業にしている人もいるかも知れませんが、そうでない普通の地元の人で、自分の時間を使って自然保護に取り組んでいる人がたくさん居ます。彼らは誰に頼まれたわけでもなく、ただそれをする事が正しいことだと信じて「勝手に」それに取り組んでいるのです。</p>

<p>さあ、こういう人たちの活動の「経済価値」を考えてみましょう。ゼロ？へたするとマイナス？非常に長い目で間接的に考えたら、自然がきれいになって、観光客が来たりするかも、などと強引に経済価値をこじつける事は出来るかも知れません。でも彼らは別に直接誰からもお金をもらっているわけではないですからね。では彼らのやっている事は愚かな事ですか？私は、彼らのような人は、偉いと思うのです。</p>

<p>そんな話を、つい先日大学で、もう一人の先生と立ち話していました。</p>

<p>そうしたら、その先生曰く「例えば QC 活動のようなものは、雇用の不安定な国では運営しにくいかもしれない。労働者はいつレイオフされるかもしれない状況では、決められた時間、決められた仕事だけをしたら、とっとと帰ってしまう。日本みたいに -- たとえそれが全員ではないにしても -- 現場の労働者が自発的にカイゼンを提案するというのは、言ってしまえば『やらなくてもよいこと』。でもそれが日本の強みを支えて来た事は間違いない。」</p>

<p>「たとえ経営会議で却下されたような製品案でも、自主的に研究開発を続けて、要求されたコスト内でより良いものを実現してしまう様な人たちもいる。中村修二さんの青色発光ダイオードなんかはいい例でしょう。でも一方で、そうして多くの時間残業をして、結果として過労死してしまった技術者のニュースがあった。サービス残業を助長する口実になるのもうまくない。」</p>

<p>なるほど。ここに結びつくとは思わなかった。これだから大学はやめられません。</p>

<p><br />
さてそんな話をしたばかりの今朝、新聞でQCサークルを正規の業務と認めて残業代を払う方向にある、という記事を読みました。</p>

<p>asahi.com: 「『カイゼンは業務』浸透　製造業、見直す動き　本社調査」<br />
<a href="http://www.asahi.com/business/update/0719/NGY200807180035.html">http://www.asahi.com/business/update/0719/NGY200807180035.html</a></p>

<p>うーん、上の様なことを考えていただけに、複雑な思いですね。</p>]]>

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<title>価値観の多様性とエントロピーの増大</title>
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<modified>2008-07-19T08:07:45Z</modified>
<issued>2008-07-01T21:47:19Z</issued>
<id>tag:www.umemuro.net,2008:/umemuro/diary//2.607</id>
<created>2008-07-01T21:47:19Z</created>
<summary type="text/plain">先日の、フィレンツェ大聖堂の日本人大学生や高校野球部監督による落書き事件は、停学や解任等の厳しい処分につながったようだが、今日の毎日新聞のニュースを見て、この事件のみえ方が少し変わったような気がした。

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<dc:subject>Diary</dc:subject>
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<![CDATA[<p>先日の、フィレンツェ大聖堂の日本人大学生や高校野球部監督による落書き事件は、停学や解任等の厳しい処分につながったようだが、今日の毎日新聞のニュースを見て、この事件のみえ方が少し変わったような気がした。</p>

<p>毎日.jp: 「落書き：伊紙『あり得ない』　日本の厳罰処分に」<br />
<a href="http://mainichi.jp/select/today/news/20080702k0000m040123000c.html">http://mainichi.jp/select/today/news/20080702k0000m040123000c.html</a></p>

<p>この記事によると、イタリアでは古代遺跡などは落書きまみれで、そのほとんどがイタリア人によるものであるとのこと。</p>

<p>私は、この新しい情報が加わったことによって、先の学生諸君を少し許してもいいかな、なんてことはちっとも思わない。むしろ終身国外出国禁止くらいにしてやるのが妥当だと思っている。</p>

<p>ただ、私は残念ながら件の大聖堂にのぼったことは無いのだが、仮に無数の落書きに既に覆われていたとしたら、この問題は「いかに多様な価値観が混在する状況の中で自分の価値観を堅持できるか」という challenge の問題に見えてくる。</p>

<p>幅広い価値観が混在する状況で、他者の行動を理由に自分の行動(の緩和)を正当化できるのなら、世界全体が、比較的速やかにより規律の少ないルーズな価値観に従い、秩序のレベルを下げていくことは明らかである。(現に今の世界がそうなりつつあることからもわかるように。それを「グローバリゼーション」だと思っている人も居るようだが。)</p>

<p>そのとき、いかに他者(他の価値観を持った人)の行動を目の前で観察しながらも、自分が正しいと信じる価値観を確固として持ち、それに従って行動できるか。これがこの「価値観の多様性」を賞賛し推奨する現代の世界に生きる人間に真に(しかも火急に)問われていることである。</p>

<p>これは別に目新しいことではない。たとえばあなたが道を歩いていて交差点で信号待ちをしているとしよう。あなたが赤信号で待っている間に、信号を無視して渡り始める人間が居るかもしれない。</p>

<p>しかし、少なくとも今日現在(地域による差もあるだろうが少なくとも東京では)、まだほとんどの人は赤信号を待っている。これがもし、皆が「他のあの人が渡っているのだから、私も渡ってもいいだろう」と考えたら、すぐにほとんどの人が赤信号で渡り始め、交通信号というシステムは機能しなくなる。(日本以外の国ではしばしば見られる状況になる、ということである。)</p>

<p>では、仮にその場で信号待ちしている人たちの80%が渡り始めたときに、あなたはどうするか。あなたが「赤信号では待つべきである」という考え方を持っていたとして、他者はどうであろうと自分の価値観に従い待つのか。今更自分が待ったところで、もう交通信号のシステムは事実上崩壊しているのだから、と一緒に渡り始めるのか。この問題が「価値観の多様性」の時代に生きるあなたに突きつけられている問いであり、世界全体が急速に無秩序の方向へ移行するかの鍵である、と思うのである。</p>

<p>件の落書き監督と学生は、山のような落書きを前に、自分の価値観により自身を律することができなかった、ということなのだろう。彼らが責められるとすれば、その点にある。</p>]]>

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<title>ミテルだけ</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.umemuro.net/umemuro/diary/archives/2008/06/post_147.html" />
<modified>2008-06-28T02:30:19Z</modified>
<issued>2008-06-28T02:24:16Z</issued>
<id>tag:www.umemuro.net,2008:/umemuro/diary//2.606</id>
<created>2008-06-28T02:24:16Z</created>
<summary type="text/plain">最近「ミテルだけ」というDVDを買いました。
しばらく大学の学生室に置きっぱなしにしていたのを、今週末初めて自宅に持って帰って(一応私の私物!)再生してみました。</summary>
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<dc:subject>Diary</dc:subject>
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<![CDATA[<p>最近「<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/redirect.html?ie=UTF8&location=http%3A%2F%2Fwww.amazon.co.jp%2F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96DVD%E3%80%8C%E3%83%9F%E3%83%86%E3%83%AB%E3%81%A0%E3%81%91%E3%80%8D-%E8%B6%A3%E5%91%B3%2Fdp%2FB00166NB0I%3Fie%3DUTF8%26s%3Ddvd%26qid%3D1214618807%26sr%3D8-1&tag=oookayamadiar-22&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211">ミテルだけ</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=oookayamadiar-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />」というDVDを買いました。<br />
しばらく大学の学生室に置きっぱなしにしていたのを、今週末初めて自宅に持って帰って(一応私の私物!)再生してみました。</p>

<p>アヤシい。</p>

<p>女性が黙ってひたすらこちらをみているだけ(たまにボソっとしゃべるが)。「インタラクティブ性」とか「人見知りの克服」とか、とってつけたような(制作者は最初から真剣にそれを目指して作ったのかも知れないが)売りはどうでもよくて、他の何か(食事とか仕事とか)をしながらリビングのテレビでアンビエントに流しっぱなし。ほとんど全く真剣に見ていない。</p>

<p>でも、別にそっちを真剣に見ている訳ではなくても、なんなく「部屋の中にもう一人いる」というアンビエントな存在感がヒジョーにアヤシい。ある程度大きなテレビで映していると、顔の大きさがかなり本物の人間に近い(もちろんそれを狙って作っているのだろうが。しかしならばもう少し顔の大きさのバラツキをそろえて欲しいな。距離感の演出なのだろうか？)。だから、テレビの枠の向こうからこちらをのぞかれているような感じがする。(ちなみに学生室ではプロジェクタで壁に大写しになったりしていた。あれはその意味で少し大きすぎるような気がするが。)</p>

<p>近い将来、人工的なエージェント(それがアンドロイドのような実存在を持つものであれ、ソフトウェア的なバーチャルなものであれ)ができて私たちの生活に入って来たら、こんな感じになるのかなあ、なんて思ったり。部屋の中に居てずっと私からの指示を待っている異質な存在。その疑似体験。</p>

<p>アンビエントな存在感を楽しむなら、人物が切り替わる時間が短すぎるなあ、もっと一人の人がずっと居た方がそれっぽいのになあ、でも15分も20分もカメラまわしっぱなしはさすがにきついかなあ、でもよくよく見ると微妙に編集してあったから、できないことは無いんじゃないかな？などとつらつら思っていたら、一人の人物を延々と再生するモードが用意されていたり。</p>

<p>しかしこの DVD 制作費安かっただろうな、2千円でもいい商売なのではないか?などと下世話なことを考えてみたり。キャラクタどうやって選んだのだろうか、制作者の趣味なのかマーケティング戦略からか若い女性が多かったけど、年配の女性や小学生の女の子もいたなあ、それにセリフはどのへんを狙って作っているのだろうか？やはりパッケージに書いてあるようにNEET世代にはこういうのがウケるという読みなんだろうか、などと考えてみたり。</p>

<p>とにかく、たったこれだけなの内容なのに(しかも全然真剣に観ていないのに)、いろいろ考えられる DVD なのでした。</p>]]>

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<title>Value System</title>
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<modified>2008-04-13T10:13:29Z</modified>
<issued>2008-04-13T10:07:00Z</issued>
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<created>2008-04-13T10:07:00Z</created>
<summary type="text/plain">今日の日記は、いささか politically incorrect  かもしれません。</summary>
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<![CDATA[<p>今日の日記は、いささか politically incorrect  かもしれません。</p>

<p>先日、研究室で大学院生とこんな議論をしました。<br />
(ただ私たちの研究室の専門は価値論でも哲学でも比較文化論でも歴史学でも社会学でもないので、素人が好き勝手しゃべっている域を出ませんから、割り引いて読んでください。)</p>

<p>今の世の中は、異なる価値観を認め受け入れることを是としているようだ。<br />
でも、どうも観ていると世の中には、そのことが是だと頭では理解しているけど、どうもハッピーではない人が結構たくさん居るように思える。<br />
なぜだろう。</p>

<p>たぶんそれは、こういうことなんじゃないか。<br />
自分と異なる価値観を持つ人が目の前に居て、その人とその人の価値観を認めて受け入れるということは、言葉を裏返すと自分の価値観を否定することになるからじゃないだろうか。<br />
自分がこれまでの人生で自分の考えや行動の拠り所として「これが良いことだ」「これが正しいことだ」と信じてきた信念。これが別に完全に否定される訳ではなくても、少なくともその有効範囲に著しく制限がつく。少なくとも目の前の人はそれを正しいことなどとは思っても居ない。実はそれを正しいこと、良いことだと思っていた人は、世界で自分だけなんじゃないんだろうか?<br />
つまり信じてきたものが基礎からぐらつく不安と不快。<br />
これが「多様な価値観を受け入れなくてはならない」と自分で自分に言い聞かせてきた人が漫然と感じている、ハッピーでないことの根源なのではないか、と。</p>

<p>例えば100年前なら、これはさして問題にならなかっただろう。アメリカ人の価値観? はいはいどうぞ。だって海の向こうのアメリカでアメリカ人がどう生きていようと自分たちには関係ありませんから。でも、21世紀の「グローバリゼーション」の時代の今は、自分と違う価値観の人間と面と向かって(あるいはネットを挟んで)一緒に生活しなくてはならないから、そうは行かない。</p>

<p>ではどうすればいいのか。<br />
議論の中で出てきた1つの現実的な答えは「自分の価値観を修正して適応する」。<br />
なるほどもっともらしくて説得力がある。でもじっくり考えると、いくつか疑問が生じる。<br />
まずは自分の信じてきた信念や価値観を疑ってかからなくてはならないことに抵抗がある人にとっては、たとえ「修正」といえどもやすやすと受け入れられるだろうか?<br />
そして、その方法だと、未知の価値観が目の前に現れる度に永遠に修正をし続けなければならない。でも、例えばある程度高齢になってそんなことをし続けるのはもういやだ、と思う人もいるかもしれない。その人たちの選択は「あきらめ」なのか?<br />
また、一人の個人が修正して適応することができたとして、今度はその個人と「社会の価値観」との乖離はどう考えるのか?<br />
そんなわけで、それが問題の根本的解決になるのかどうかは、今ひとつよくわからない。</p>

<p>そんなところが、先日の議論で出てきた話でした。<br />
続きはまた気が向いたら。</p>]]>

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