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2008年08月14日
続・Value System
前回に続き、たぶんに politically incorrect な、素人の勝手な物言いなので、適当に割り引いて読んでください。(実はこの文章は前回の直後、4月に書いたものなのですが、ある理由によりしばらく寝かせていました。)
そもそも、いろいろな人と話をしていると「多様な価値観」うんぬんの話自体がアメリカの価値観に他ならないように思える。
「島国」日本では古くは「儒教」や「武士道」など精神的規範が古くから確立していて、長い間それが国民のかなりの割合に共有、尊重されて来たように思える。そういう意味では歴史的に共通の価値観が共有されてきたのだろう。(それがそれぞれの時代局面で良かったことなのかどうかは別として、事実として。)
だから、この数十年の間に急速に外国から流れ込む様々な価値観と「それを認めるべきなんだ」という精神的プレッシャーにとまどう日本人が居てもあまりおかしくない。
一方、ヨーロッパは太古の昔から「移民」の国だ。ヨーロッパ人の言う「移民」は何も恒久的に引っ越してきてそこに永住する人だけではない。数年働いて帰る人も移民。だから移民に関する問題については何千年の歴史を持つ大先輩のはず。ところが、やはり日本と同じくここ数十年、「国外から流れ込む異質な価値観」が社会問題化して、勢いナショナリズムに振れている国が多いような気がする。どうしたんですか? あなた方にとっては移民問題は豊富な経験がある得意分野ではないのですか?
どうも、鍵は "In Rome, do as Romans do." あたりにあるのではないかと思われる。
ローマに来る? どうぞどうぞ。でもローマではローマの流儀でやってね。
そこに合意ができれば、ローマ人がそれほど不幸になるとは思えない。それがたとえ支配関係であったとしても、ヨーロッパでは少なくともそのルールがうまく働いてきた。だから移民とうまくやっていたのではないか。そして、近年その前提が崩れたのではないか、と仮定してみる。
一方アメリカは、歴史的経緯からいって「その国の流儀」そのものが成立し得ない。精々が初期のヨーロッパ系移民がそれぞれの国から持ち寄った流儀の最小公倍数程度しかありえなくて、最初から多数の価値観が共存するカオスとしてしか存在し得ない国。それでも建国以来200年以上経って「アメリカ流」みたいなものができたように見えるけど(そしてそれが例えば近年ヒスパニック系移民との摩擦になっていたりするようだけど)、そもそも「なんでもあり」が文化である国で、しかも移民の絶対数が多いのだから、あってないようなものにならざるをえない。
で、今何が起こっているか。
つまるところアメリカが「われわれは何百年もの間カオスを受け入れてきた。だからお前らも受け入れろ」と言っているということではないか。結局は「グローバリズム」という名のアメリカ式システム、アメリカ的価値観による帝国主義が進んでいるだけなのではないか。
「アメリカに来るならアメリカの流儀で」などと言ったことがない人間が、自分が今度出て行ったときに、出て行った先の流儀を尊重するなどという発想が持てなくても何ら不思議ではない。(だいたい彼らは先住民族を蹴散らした人間の子孫なのだから。)
だから行った先の国の流儀など関係なく、自分たちの価値観が素晴らしく最高のもののように説いて、それでもって世界を「平らに」してしまおう、というローラー作戦が、実は現代急速に布教が進んでいる「多様な価値観を受け入れましょう」運動の本質なのではないか。(ここで断っておくが、多様な価値観そのものに否定的なのではない。現代の「受け入れましょう運動」が、そのような本質をはらんでいるように見えることを疑問視しているのである。) そしてアメリカのMBAや大学あたりで学んできたエヴァンジェリストたちが「アメリカ的システム、アメリカ的価値観は素晴らしい」と声高らかに宣教して回るので、それを聞いてそう信じなくてはならないと自分で自分を説得している人たちが、一抹の不幸を感じる根源なのではないか。
例えば私たちの国に、外国人が来る。そして「自分たちは生活習慣が違うのだから、自分たちの文化を尊重しろ」と言う。でもそんな時聞いてみたい。「ではあなた方は、自分たちが訪れているこの国の文化を尊重しているのか?」と。
追記
この議論で注意しなくてはならないのは、少なくとも「公的な活動」と「私生活」の2レベルを層別して考えなくてはならないことだ。例えば外交官が会談する。国際会議を開催する。そこには世界中のありとあらゆる文化と価値観が存在し得て、それらに最大限の配慮が必要であると同時に、そのアドバンテージを最大限活かすべきである。それは企業の経済活動でも、大学の研究活動でも同じことである。それは、そのような「公的な活動の場」が、地理的にどこで開催されているかから離れた(もちろんネット上の活動も含めて)、文化的・価値観的にニュートラルな「場」として恣意的に設けられているからである(少なくとも理想的には)。
ところが、日常の生活では話が違ってくる。人々の日々の生活で、上記のような文化的・価値観的にニュートラルな生活が営めるのはおそらくごく少数だろう。なぜなら、生活=日々の営みは、文化から切り離して存在し得ないからである。だからこの記事のような議論が問題になるのは主にこの「私生活」の部分であり、多くの生活者がとまどい、居心地の悪さを感じつつも「受け入れましょう」プレッシャーの前に沈黙している、と筆者は見ている。

投稿者 umemuro : 2008年08月14日 18:33
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