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2008年08月30日
バーチャル議員
朝最寄りの駅へ歩いて行くと、珍しく地元議員とおぼしきスーツ姿のにいちゃんとそれをとりまくハッビ姿の人々が、街頭演説の片付けをしている。
へぇ〜、珍しいな。最近は新顔の住民が増えて来ていっぱしの票田になってきたら、顔を売りに来たか?この駅と隣の駅に出来た新しいマンションの住民を押さえれば、区議会くらいは出られるのかな?自分もいっちょ立候補でもしてみるか?しかし自分言う事がけっこうラディカルだからなあ。一度目はインパクト狙いという事で過激なことばっかり言うのも良いかもしれないけど、後になって絶対自分の首を絞めるんだよなあ。同じ一人の顔というか名前というか人格を引きずる以上、そうそういろんなことはできないか。前の人格を無かった事にできれば良いんだけどなあ...
と、ここまで考えて思いついたのがエージェント。今世の中にある人間の職業としてのエージェントではなくて、人工知能なんかの分野で言うエージェントシステム。平たく言うと、自分の代わりにいろんな仕事ーたとえば旅行の手配をしてくれたり、必要な情報を集めてくれたり、秘書とか執事の代わりをしてくれる様なシステム。今でもソフトウェア的なエージェントは研究されていて、ロボット(アンドロイド)的な実体とあわせたものももうすぐ実用化、なんて話を聞くけど、エージェントの性能が十分上がったら、エージェントに議員をさせれば良いのではないだろうか?
そうすれば、与えられた状況と問題について、いつもリベラルな意思決定をしがちなエージェント、福祉重視の意思決定をするエージェント、保守的な右寄りエージェント、いつも過激な事を言うエージェント、穏健派のエージェント、などを作って議会をやらせればいい。今でも複数の意思決定エージェントを同時に動かしてその総意として意思決定をする仕組みはあるのだから、選挙は、今期はどのエージェントモジュールを採用して、各々に何票(=どのくらいの重み)を与えるかの見直しに等しい。議員の人件費も事務所費も視察旅行の費用も要らないし、「選挙の時にはあんなこと言っていたのに当選したら全然違う事をやっている」なんてことも無いだろうし、金もらって口利きなんて言う政治の黒い部分も無くなって(もっともエージェントの機能が十分「高度」になったらわからないけど)、民意を政治的意思決定に反映する、という機能がより純粋な形で実現するのではないか?そして「このエージェントはろくな事を言わないからダメだ」となればいつでもスクラップにできるし。
というわけで、そんな「真の e-議会」が実現するのに十分なほど、エージェントが高性能になるのはいつの日かな〜、などと考えながら電車に乗った。まあ、こういう研究をしている研究者は多分今もちゃんといて、彼らに言わせれば「(技術的には)もうすぐ」なんだろうけど。多分技術じゃなくて、人々がそのシステムを受け入れるまでに時間がかかるんだろうな。

投稿者 umemuro : 00:50 | コメント (0) | トラックバック
2008年08月28日
What a monkey really wants to CHANGE
この日記は、1月前に一度書こうと思って、なんとなくお蔵入りさせていたのだけれども、昨日の事件のニュースを聞いてやっぱり書くことにしました。
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先月、イー・モバイル社がTVCMで、同社のマスコットであるサルにアメリカ民主党のオバマ大統領候補のまねをさせて、黒人から「人種差別だ」と避難を受けて CM を取り下げた事件が報道された。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0807/03/news041.html
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080703-OYT1T00464.htm
私は、イー・モバイル社はリスクマネジメントという点では不十分だったのだろう、ということを認めた上で、この事件について少し違った感想を持った。
今は「グローバリゼーション」の時代で、情報はインターネットに乗ってどこへでも行く。だから日本人だけでなく世界のどんな人が見ているかわからないのだから、世界のどんな人が見ても不愉快にならないようなものを作るよう配慮すべきだ。そういう理屈なのだろう。
なら質問したい。アメリカで作られている広告・映像・メディアは、世界のあらゆる文化と民族を考慮して作っているのか?その表現は中東のこの文化でどのような意味を持っているのか考慮しているのか?その色はアフリカのこの地域でどのような意味を持っているのか考慮しているのか?その比喩はアジアのこの国でどのような印象を持つか考慮しているか?
私は、アメリカ人(しかも相当教育レベルの高い人々)で、アメリカこそが世界の中心であり、「イラク戦争は世界のどこか辺境で起こっている戦争」と公言している人々を知っている。大方のアメリカ人の認識はこれと同じだろう。アメリカこそが世界の中心。だから、アメリカ国内の人種や文化(「マイノリティ」)には十分すぎるほど気を使う。ではアメリカ以外の国は?考えてもせいぜいヨーロッパ程度だろう。そんなことを考える頭も配慮も無いから中東が、アフガンが、今あんな状況になっているのではないのか。
では世界の国はアメリカをどうみているのか。アメリカの作ったCMでおかしな(あるいは目を覆いたいような)ものがあったとして、その国の人々はどうするか。「またアメリカのバカがあんなもの作って」と思う程度で、相手にしないだろう。なら、なぜイー・モバイルは文句を言われたか?答えは簡単。アメリカ人にとってグローバリゼーションとは全世界が世界の中心であるアメリカのルールを教わってそのルールで動く事であるから、アメリカ人にとって不愉快なものは許されない。それだけである。
従って今回の一件は、またアングロサクソン国家(というよりアメリカ)の傲慢さを世界に露呈させた、それだけのことに見える。

追記
面白い事に、以下の例はアメリカ的にOKらしい。(アメリカのサイトから拾って来たもの。引用元は画像をクリックして下さい。)
まあ、これはあまりに的確に本質を突いているから批判のしようもないか。
投稿者 umemuro : 13:26 | コメント (0) | トラックバック
2008年08月14日
続・Value System
前回に続き、たぶんに politically incorrect な、素人の勝手な物言いなので、適当に割り引いて読んでください。(実はこの文章は前回の直後、4月に書いたものなのですが、ある理由によりしばらく寝かせていました。)
そもそも、いろいろな人と話をしていると「多様な価値観」うんぬんの話自体がアメリカの価値観に他ならないように思える。
「島国」日本では古くは「儒教」や「武士道」など精神的規範が古くから確立していて、長い間それが国民のかなりの割合に共有、尊重されて来たように思える。そういう意味では歴史的に共通の価値観が共有されてきたのだろう。(それがそれぞれの時代局面で良かったことなのかどうかは別として、事実として。)
だから、この数十年の間に急速に外国から流れ込む様々な価値観と「それを認めるべきなんだ」という精神的プレッシャーにとまどう日本人が居てもあまりおかしくない。
一方、ヨーロッパは太古の昔から「移民」の国だ。ヨーロッパ人の言う「移民」は何も恒久的に引っ越してきてそこに永住する人だけではない。数年働いて帰る人も移民。だから移民に関する問題については何千年の歴史を持つ大先輩のはず。ところが、やはり日本と同じくここ数十年、「国外から流れ込む異質な価値観」が社会問題化して、勢いナショナリズムに振れている国が多いような気がする。どうしたんですか? あなた方にとっては移民問題は豊富な経験がある得意分野ではないのですか?
どうも、鍵は "In Rome, do as Romans do." あたりにあるのではないかと思われる。
ローマに来る? どうぞどうぞ。でもローマではローマの流儀でやってね。
そこに合意ができれば、ローマ人がそれほど不幸になるとは思えない。それがたとえ支配関係であったとしても、ヨーロッパでは少なくともそのルールがうまく働いてきた。だから移民とうまくやっていたのではないか。そして、近年その前提が崩れたのではないか、と仮定してみる。
一方アメリカは、歴史的経緯からいって「その国の流儀」そのものが成立し得ない。精々が初期のヨーロッパ系移民がそれぞれの国から持ち寄った流儀の最小公倍数程度しかありえなくて、最初から多数の価値観が共存するカオスとしてしか存在し得ない国。それでも建国以来200年以上経って「アメリカ流」みたいなものができたように見えるけど(そしてそれが例えば近年ヒスパニック系移民との摩擦になっていたりするようだけど)、そもそも「なんでもあり」が文化である国で、しかも移民の絶対数が多いのだから、あってないようなものにならざるをえない。
で、今何が起こっているか。
つまるところアメリカが「われわれは何百年もの間カオスを受け入れてきた。だからお前らも受け入れろ」と言っているということではないか。結局は「グローバリズム」という名のアメリカ式システム、アメリカ的価値観による帝国主義が進んでいるだけなのではないか。
「アメリカに来るならアメリカの流儀で」などと言ったことがない人間が、自分が今度出て行ったときに、出て行った先の流儀を尊重するなどという発想が持てなくても何ら不思議ではない。(だいたい彼らは先住民族を蹴散らした人間の子孫なのだから。)
だから行った先の国の流儀など関係なく、自分たちの価値観が素晴らしく最高のもののように説いて、それでもって世界を「平らに」してしまおう、というローラー作戦が、実は現代急速に布教が進んでいる「多様な価値観を受け入れましょう」運動の本質なのではないか。(ここで断っておくが、多様な価値観そのものに否定的なのではない。現代の「受け入れましょう運動」が、そのような本質をはらんでいるように見えることを疑問視しているのである。) そしてアメリカのMBAや大学あたりで学んできたエヴァンジェリストたちが「アメリカ的システム、アメリカ的価値観は素晴らしい」と声高らかに宣教して回るので、それを聞いてそう信じなくてはならないと自分で自分を説得している人たちが、一抹の不幸を感じる根源なのではないか。
例えば私たちの国に、外国人が来る。そして「自分たちは生活習慣が違うのだから、自分たちの文化を尊重しろ」と言う。でもそんな時聞いてみたい。「ではあなた方は、自分たちが訪れているこの国の文化を尊重しているのか?」と。
追記
この議論で注意しなくてはならないのは、少なくとも「公的な活動」と「私生活」の2レベルを層別して考えなくてはならないことだ。例えば外交官が会談する。国際会議を開催する。そこには世界中のありとあらゆる文化と価値観が存在し得て、それらに最大限の配慮が必要であると同時に、そのアドバンテージを最大限活かすべきである。それは企業の経済活動でも、大学の研究活動でも同じことである。それは、そのような「公的な活動の場」が、地理的にどこで開催されているかから離れた(もちろんネット上の活動も含めて)、文化的・価値観的にニュートラルな「場」として恣意的に設けられているからである(少なくとも理想的には)。
ところが、日常の生活では話が違ってくる。人々の日々の生活で、上記のような文化的・価値観的にニュートラルな生活が営めるのはおそらくごく少数だろう。なぜなら、生活=日々の営みは、文化から切り離して存在し得ないからである。だからこの記事のような議論が問題になるのは主にこの「私生活」の部分であり、多くの生活者がとまどい、居心地の悪さを感じつつも「受け入れましょう」プレッシャーの前に沈黙している、と筆者は見ている。


