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2008年07月19日

やらなくてもよいこと

「これはやらなくちゃいけないんですか?」
こういう質問にしばしば出会います。

いろいろな context で出て来ますが、多くの場合は、背後に「やらなくてはならない決まりならしょうがないからやるけど、そうでないならそんなことはやらずに済ませたい」という気持ちが入っている様な気がします。

もちろんそれは間違った事ではなくて、やらなくてもよいことをやらなくても責められないし、それでペナルティも無く損もしないならやる必要はない。やらずに済ませてもっと別のこと -- 楽しい事や有意義な事 -- に時間を使いたいという場合もあるでしょう。だからそれ自体は別に問題はない。

ただ一方で、最近よく思う事は、「実は、本来その人がやる義務もなく直接得にもならないことを、何らかの考えや信念でやるべきだと考えて、それをやる人が一番偉いのではないか」ということです。

例えば、近くの海に住むある生き物が絶滅しそうだ、と知ったとします。もちろんそういう生物の保護を本来の職業にしている人もいるかも知れませんが、そうでない普通の地元の人で、自分の時間を使って自然保護に取り組んでいる人がたくさん居ます。彼らは誰に頼まれたわけでもなく、ただそれをする事が正しいことだと信じて「勝手に」それに取り組んでいるのです。

さあ、こういう人たちの活動の「経済価値」を考えてみましょう。ゼロ?へたするとマイナス?非常に長い目で間接的に考えたら、自然がきれいになって、観光客が来たりするかも、などと強引に経済価値をこじつける事は出来るかも知れません。でも彼らは別に直接誰からもお金をもらっているわけではないですからね。では彼らのやっている事は愚かな事ですか?私は、彼らのような人は、偉いと思うのです。

そんな話を、つい先日大学で、もう一人の先生と立ち話していました。

そうしたら、その先生曰く「例えば QC 活動のようなものは、雇用の不安定な国では運営しにくいかもしれない。労働者はいつレイオフされるかもしれない状況では、決められた時間、決められた仕事だけをしたら、とっとと帰ってしまう。日本みたいに -- たとえそれが全員ではないにしても -- 現場の労働者が自発的にカイゼンを提案するというのは、言ってしまえば『やらなくてもよいこと』。でもそれが日本の強みを支えて来た事は間違いない。」

「たとえ経営会議で却下されたような製品案でも、自主的に研究開発を続けて、要求されたコスト内でより良いものを実現してしまう様な人たちもいる。中村修二さんの青色発光ダイオードなんかはいい例でしょう。でも一方で、そうして多くの時間残業をして、結果として過労死してしまった技術者のニュースがあった。サービス残業を助長する口実になるのもうまくない。」

なるほど。ここに結びつくとは思わなかった。これだから大学はやめられません。


さてそんな話をしたばかりの今朝、新聞でQCサークルを正規の業務と認めて残業代を払う方向にある、という記事を読みました。

asahi.com: 「『カイゼンは業務』浸透 製造業、見直す動き 本社調査」
http://www.asahi.com/business/update/0719/NGY200807180035.html

うーん、上の様なことを考えていただけに、複雑な思いですね。

投稿者 umemuro : 16:07 | コメント (0) | トラックバック

2008年07月02日

価値観の多様性とエントロピーの増大

先日の、フィレンツェ大聖堂の日本人大学生や高校野球部監督による落書き事件は、停学や解任等の厳しい処分につながったようだが、今日の毎日新聞のニュースを見て、この事件のみえ方が少し変わったような気がした。

毎日.jp: 「落書き:伊紙『あり得ない』 日本の厳罰処分に」
http://mainichi.jp/select/today/news/20080702k0000m040123000c.html

この記事によると、イタリアでは古代遺跡などは落書きまみれで、そのほとんどがイタリア人によるものであるとのこと。

私は、この新しい情報が加わったことによって、先の学生諸君を少し許してもいいかな、なんてことはちっとも思わない。むしろ終身国外出国禁止くらいにしてやるのが妥当だと思っている。

ただ、私は残念ながら件の大聖堂にのぼったことは無いのだが、仮に無数の落書きに既に覆われていたとしたら、この問題は「いかに多様な価値観が混在する状況の中で自分の価値観を堅持できるか」という challenge の問題に見えてくる。

幅広い価値観が混在する状況で、他者の行動を理由に自分の行動(の緩和)を正当化できるのなら、世界全体が、比較的速やかにより規律の少ないルーズな価値観に従い、秩序のレベルを下げていくことは明らかである。(現に今の世界がそうなりつつあることからもわかるように。それを「グローバリゼーション」だと思っている人も居るようだが。)

そのとき、いかに他者(他の価値観を持った人)の行動を目の前で観察しながらも、自分が正しいと信じる価値観を確固として持ち、それに従って行動できるか。これがこの「価値観の多様性」を賞賛し推奨する現代の世界に生きる人間に真に(しかも火急に)問われていることである。

これは別に目新しいことではない。たとえばあなたが道を歩いていて交差点で信号待ちをしているとしよう。あなたが赤信号で待っている間に、信号を無視して渡り始める人間が居るかもしれない。

しかし、少なくとも今日現在(地域による差もあるだろうが少なくとも東京では)、まだほとんどの人は赤信号を待っている。これがもし、皆が「他のあの人が渡っているのだから、私も渡ってもいいだろう」と考えたら、すぐにほとんどの人が赤信号で渡り始め、交通信号というシステムは機能しなくなる。(日本以外の国ではしばしば見られる状況になる、ということである。)

では、仮にその場で信号待ちしている人たちの80%が渡り始めたときに、あなたはどうするか。あなたが「赤信号では待つべきである」という考え方を持っていたとして、他者はどうであろうと自分の価値観に従い待つのか。今更自分が待ったところで、もう交通信号のシステムは事実上崩壊しているのだから、と一緒に渡り始めるのか。この問題が「価値観の多様性」の時代に生きるあなたに突きつけられている問いであり、世界全体が急速に無秩序の方向へ移行するかの鍵である、と思うのである。

件の落書き監督と学生は、山のような落書きを前に、自分の価値観により自身を律することができなかった、ということなのだろう。彼らが責められるとすれば、その点にある。

投稿者 umemuro : 06:47 | コメント (0) | トラックバック