« 耳をすませば | メイン | 連休が始まってしまった... »
2006年04月27日
So long, 「論理」&「自由」
遅ればせながら藤原正彦先生の「国家の品格」を読みました。
いろんな意味でショックを受けた本ですが、なかでも数学者である藤原先生が、現実社会に於ける論理の限界(というか無力さ)を斬り捨てた2章などはあまりに痛快でした。
また3章(および7章)の自由についての議論も興味深いものでした。私はこれまでジョン・ロック流の「他人の自由を侵害しない限りにおいて自由」という立場に立って、今の世間の「自由」があまりに他人の権利を考える事無く好き勝手やり放題に突っ走っているかをことある毎に嘆いてきましたが、藤原先生はそもそもジョン・ロックやそれに基づくアダム・スミスの経済学がいかに当時の欧州の宗教的・社会的背景に基づく限定的な概念であるか、そしてそれが拡大解釈されて金銭至上主義を生み出したことを指摘しました。さらには、民主主義の大前提がそもそも「成り立たない」ことについては、痛快すぎてここに書けません。
藤原先生のこの力作がベストセラーになったにも関わらず、おそらく今世紀前半くらいはこのまま、ナショナリズム(自分の国益のことしか考えないという意味においての)の権化であるアメリカが進める、グローバリゼーションという名のアメリカによる世界支配が進むでしょう。日本の「頭のいい」若者(私の大学の学生も含めて)の少なからざる数が、大学を卒業して「市場」で金儲けに奔走していますから。そしておそらく私が死ぬ頃には「グローバル化した」世界が破綻している事でしょう。(経済は破綻しないと思います。今のグローバル経済は数%の「勝ち組」のために残り全部から搾取するフレームワークですから、市場経済が破綻せずに世界が破綻しているという状態が来るでしょう。) その頃、あるいは来世紀にでも、藤原先生のこの本や、この本がよりどころの一つとしている新渡戸稲造が古典として読まれるようになればいいな、と思っています。
投稿者 umemuro : 2006年04月27日 22:58
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.umemuro.net/mt3/mt-tb.cgi/91
コメント
ラトウィッジ・ドジスン(キャロル)による
(論理の前提となる)定義空間のありかた
(時間と場所により色分けされた空間)まで
戻っていいかも。↓胴が消えたら頭を切れない
チェシャ猫で終わった問題提起はともかくも、
(ようするに行為選択肢の有効性価値のこと)
自由は論理:知識を前提とするものとか、
善と異質であり相補的または対立する正義、
いいかえると定義契約・特色付け、に根ざす、
行為による報酬の主体性である責任に対する、
未来群選択肢認知としての知識=体系知とか。
論理、ファンタジー世界のトリック、地図?
善や力などの徳の基礎:必然性(=順序性)の
のルールに反する実現に関心があったことは、
ドジスンが曜日進行逆転線を調査していた
事でわかり、また義=許可が本来的に局所的・
特定時点的なものだとしていたことも例にある。
権=借(かり)として使用する場面は
話がずれるが、論理による自由とは
認知を容器にたとえたときの出口と入口の様に
・・・とか無責任に書くのは「気軽」枠に入る?
正義は善(や力、忠誠や感情などの徳の類い)
に違反するものとして登場し論理や自由を生む。
やがて権利(かり)と義務(かし)のルールを
破るものとして責任が出るが、実はその正体は
部分性や(統計などに表れる意味での多次元的)
方向性などの多様性を外的に持つ全体化評価系、
つまり古典的な報酬系、情動(感情)でした、と
ああ話が進んでないようなそうでもないような?
書き逃げ(←正負不問の報酬主体性=責任から
投稿者 kodzura : 2007年01月21日 23:09
コメントしてください
サイン・インを確認しました、 . さん。コメントしてください。 (サイン・アウト)
(いままで、ここでコメントしたとがないときは、コメントを表示する前にこのウェブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)