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2004年09月28日
Be Gentleman
朝日新聞のウィークエンド増刊「be」を asahi.com で読んでいて、北海道大学の祖となる札幌農学校を開いたクラーク博士の言葉に心を打たれました。クラーク博士と言えば「Boys be ambitious」(少年よ大志を抱け)があまりに有名ですが、このコラムではもう一つ、「Be gentleman」という言葉を紹介していました。クラーク博士が赴任してすぐの訓示で「この学校に規則はいらない。Be gentleman ! これだけでいい。」と述べたとか。自分で自分の道に照らして、何が正しく何が正しくないのかいつも判断しなくてはならない。なんと簡潔でなんと厳しい事でしょう。これら二つの言葉を伝えた人々をこのコラムは紹介していました。
私はここのところ常々自分の心に余裕がなくなって、ともすればギスギスして、それを東京と言う都市の殺伐とした人の間に住むせいにしている自分が気になっていました。でも、今回アメリカに来て、都市と地方の差こそあれ道行く人の余裕のある立ち居振る舞いに、ああ自分もこころに余裕をもってこの様に人に接しなくてはならないな、と思い始めていました。そんな折りに上記のコラムを読みました。 Be gentleman。自分が紳士であるかどうかだけが判断の基準であるというこの厳しさに照らしてみれば、都市かどうか、東京かどうかなんて関係ないじゃないか。
紳士であると言う事は、時には出し抜かれて損をする事もあるでしょう。でもそういう目先の損にとらわれず、自分の位置をつねに誤らずにいられるかどうか。これから、今回初めて知ったクラーク博士の言葉を忘れずに、しばらく鍛錬をしてみようと思っています。

投稿者 umemuro : 02:09
2004年09月24日
明日への糧
というわけで先週末から仕事でアメリカに来ています。
今回は4年前に滞在した (ここの先生に言わせれば私の "second home" )、デイトンを訪ねる機会を得ました。Wright State University の皆さんと久しぶりに会って継続中の共同研究の話、その他私たちが東京でやっている事の話やこちらで進行中の面白い話、はたまたヨーロッパで進行中の面白い話など、たくさんの情報を交換しました。
ここに来るたびいつもの事ですが、この地に来るといろんな意味で得るものが多いです。まず第一に、もちろん上に書いた様ないろいろなインプットがあること。第二に、物理的にも時間的にも日常から遠くはなれる事で、いろいろなことをゆっくり考え直したり、新しい事を考えるチャンスが持てること。そして第三に、私が大好きなオハイオの自然と Dayton の友人に会えること。どこまでも青く広い空を見渡し、優しい友人たちと話したり食事をしたりしていると、本当になんにも混じり気のない幸せな気持ちになって、心の洗濯をさせてもらっています。
こうして、東京に戻ってから「また頑張って仕事をしようかな」と思えるために必要なすべてのものをもらえる場所が、私にとってここ Dayton なのです。

投稿者 umemuro : 13:18
2004年09月21日
Elephant and Donkey?
思えば4年前の前回のアメリカ大統領選挙の時には私はアメリカに住んでいて、ブッシュがゴアを制した、などとはとても言い表せないすったもんだ大もめの末、いつの間にかブッシュが勝った事になっていた、おそらくはアメリカ史に残る奇妙な選挙をずっと見ていました。あの時ゴアが勝っていたら21世紀の世界の歴史は大きく変わっていただろうな、と思うと考える所大です。
そして、アメリカでは再び大統領選挙が近づいて来ました。しかも共和党候補はまたブッシュ。読んだ人も多いと思いますが Michael Moore の "Stupid White Men"* の扉に、ブッシュが前回の大統領選後にスウェーデン首相に話したと言うこんな語録が引用されていて大笑いしたのですが(その後の出来事を考えると全く笑い事ではなかったのですが)、今回はどんなことを言ってくれるか、今から楽しみなような怖い様な...
"It's amazing I won. I was running against peace, prosperity, and incumbency."
George W. Bush, June 14, 2001
speaking to Swedish Prime Minister Goran Perrson,
unaware that a live television camera was still rolling
(copyright 2001 Michael Moore)
*:ちなみにこの本の訳本は全く好きになれません。表紙のデザインの理解に苦しむのもさることながら、本文のデザインや翻訳の日本語のひどいこと! 大学の生協の書店に並んでいるのを手に取って、言葉を失いました。原著を読んで好きだっただけにショックが大きかった...
投稿者 umemuro : 03:01
2004年09月18日
「卒業論文+人間工学」
ここしばらく、うちの研究室のサイトのアクセス記録を見ていると、Yahoo! や Google で「卒業論文+人間工学」とか「経営工学+卒業論文」とかのキーワードで検索してうちの研究室のサイトに来る人が多い事がわかります。ちょうどうちの研究室の4年生諸君も卒業研究で対象とする問題を探すのに苦労しているので卒論のテーマを考える時期は時期なのでしょうが、それにしてもちょっと疑問がわきました。
検索しているのはうちと同じ様な経営工学科とか人間工学に関する学科の4年生なんでしょうけど、何を目的にそういったキーワードでサーチをしているんでしょうか? 素直に考えると他の人はどんなテーマで卒論をやっているのか知りたいのかなと思うのですが、研究テーマなんてのは一番オリジナリティが求められるところです。人の卒論のテーマを参考にしてどうするのでしょう?ちょっと変えればそれらしいものができるかな、なんて考えているのならなんと志の低い事か。そうでなくて既存研究でどんなことがやられているのかというレビュー目的なら、卒論など調べず論文誌を調べるべきだし、なにより研究テーマに関連したキーワードを選ぶべきでしょう。
学生諸君。「これくらいのことをやれば卒業できるかな」くらいの志なら卒業研究などやらない方が良い。いずれにしろ卒業までかなりの時間を費やすのだから、「こんなおもしろいこと今までやったやつはいないだろう」と胸を張れることに打ち込んでほしい。それが研究というもの。そして学生仲間のレベルではなく、論文をきちんと読んで研究者の世界をきちんと勉強してほしい。

投稿者 umemuro : 03:25 | コメント (2)
2004年09月14日
邸宅街?
昨晩帰りの電車で、新築高級住宅の販売ポスターを見ました。
「GENEHILLあざみ野」。"遺伝子ヶ丘"。売れるんだろうか?
いや、もしかすると私の知らないうちに世の中もっと進んでいて、もうIT世代の私たち前後の世代は「サイバーヒルズ○○」とか「バーチャルエステート××」とかいう名前は OK になっていて、私たちより若い「バイオ世代」にはこういう名前が受ける様になっていたとか?
しかし「バーチャルエステート」は買いたくないなあ。突然家の実体がなくなったりして。
・・・
この話をした知人のひとりは「それはきっと、表向き一般に販売されているけど、実は遺伝子操作をされて優秀な遺伝子が埋め込まれた gene-rich な人しか入居できないという厳しい審査がある高級住宅街だよ。」と言っていました。恐い話だけど、でもあと何十年かで確実に現実になるんだろうなあ...
投稿者 umemuro : 22:57
2004年09月12日
「マナー」の「なぜ」に答える本
世の中の「ルール」 --- 「マナー」と言う言葉は私はあまり使いたくありません。今ちまたで使われているこの言葉には「破ってもいいルール」のようなニュアンスがあるからです。社会の構成員が守らなくてはいけないことなら、ルールとか規則とか法律とか言うべきなのです。それはともかく --- およそあらゆる「ルール」には、必ずそれができた理由があるはず、と私は考えています。たまには理由がよくわからないルール --- 例えば百年前に作った法律が今もなんとなく残っている --- などもあるかも知れませんが、99%以上はなんらかの理由があってそういうルールにしよう、と社会で決めたはず。なぜなら、人間は基本的に自由な方が快適なのですから、理由がなければ自ら自由を拘束しようとする「ルール」など作るはずないのです。
ところが、少なくとも今日の日本では、その背後にある理由について語られず、「何をしてはいけない」「こうしなくてはならない」という表面的な規則のみが語られます。なぜそうしなくてはならないかがわからず、ただ「言われたから」という理由で、色々と束縛されている様に思える。だからいろいろ理由をつけて破りたくなる。上にも書いた様に人間拘束は少ない方がいいので。駅の構内は禁煙、と言われても、改札を出たら吸ってもいいと勝手な解釈をする。多くの人間が同じ空間内で非常に近接した距離で動かざるを得ない状態では受動禁煙のリスクが高い、という理由を考えれば改札の中と外ではなんら本質的な差はないのに、理由を知らされないから勝手な解釈をする。だから、日本の社会はもっとルールの「理由」を語るべきだし、ルールを作る側は、積極的に「理由」を伝えた上で「だから禁止」と言うようにすべきだと常々思っていました。
最近、多湖輝先生の「12歳からのマナー集 -- インターネット・ケータイ・電車内マナーから『なぜ殺してはいけないのか』まで」(新講社)を読みました。多湖輝先生はあの「頭の体操」シリーズでまだ少年だった私を虜にし、心理学という世界の魅力を教えてくれた大恩人ですが、この本は多湖先生が、子供たちにまさに上記の「なぜ」を懇切丁寧に伝えている本です。特に「なぜ殺してはいけないのか」は圧巻。なぜ今まで、こういうことを、基本となる精神から実際に破ったら何が起こるかまでをひとつひとつ丁寧に若い世代に教えてこなかったのか。いや、まさにそれこそが、多湖先生がこの本を執筆された理由でしょう。
私はこの本を、多湖先生がタイトルに冠した小学校6年生から中学生くらいの世代の、ひとりでも多くの子供たちに読んでほしいと思うと同時に、我々親の世代にも是非読んでほしいと強く願います。子供たちに「なんでそうしなきゃいけないの?」と聞かれた時にきちんと答えられるように。別に本に書いてある多湖先生の「理由」に納得しなくても、ルールの「なぜ」に答える・考えるという習慣だけでも自分のものになるように。私たちの世代は、もう「なぜ」を抜かしてルールだけを教えられて来た世代なので。
(今回の冒頭の考え方は、私の会社勤め時代の親友NS氏に教わったことに大きく影響を受けています。多謝。)

投稿者 umemuro : 21:00
2004年09月09日
日本語と論文 (4)
(前回の続き) 結局のところこれが、多くの日本人が英語の論文が下手な(と仮定してその)理由だと思うんです。きちんと論理だった文章を書く方法を教わらずに、なんとなく模倣して「それっぽい」文章を書く様になる。その結果、論理構造がよくわからない日本語を英語に直しているか、日本語という言語の特性のために論理的に考え、文章を作るということに日頃接していないし教わってもいないから、いざ英語で論理的に書こうと思っても書けない。一方英語は(私は他の西洋の言語にそれほど精通してませんから比較して英語が一番なんてことは言いませんが、少なくとも日本語との比較において)、あるいは英語を母国語とする国、特にアメリカの文化は、ロジカルに言説を組み立てることを当然のことと考えている。小中学校からディベートで議論を組み立てる方法を教えているし、書き方についても大学ならアカデミックライティングの、ロースクールならリーガルライティングの授業がちゃんとあって方法論をきちんと教えてくれる。
しばらく前私達の大学でもアカデミックライティングの授業が大学院にできました。私は、アメリカの様に学部、それも1年生のうちに習うべきではないかと思います。そして、テクニックを習得すると同時に、日本語の翻訳ではなく、英語で考えて英語で書ける人が増えて欲しいと思います。私も鍛錬のためにここ数年は論文は原則として英語で書いています(共著者がいたりという事情が無い限り)。日ごろの考え方、文化が異なっているんだから単に言語を学んだだけでは論理的な文章は書けない。鍛錬あるのみ。

投稿者 umemuro : 21:52
2004年09月08日
日本語と論文 (3)
(前回の続き) 話はちょっと論文から離れますが、これに関連して思い出すのは、なんでも業界によっては1つの文(「。」で終わるまで)がA4の紙で1ページを超えることが珍しくないという文章が行き交っているという話を聞いた事があることです。で、その業界でそれを英語に翻訳する仕事をしていた人達から聞いた話。とても真っ当には英語に出来ない、というのは容易に想像がつく話ですが、それは単に文が長いからではないとか。きちんとした文がいくつもつながっているとか、形容詞がたくさん付くから長いとかではなくて、そもそも日本語の文としての構造が崩れてめちゃくちゃになっている。どう解析しても何が主語で何が述語がわからない、あるいは主語述語の対応がとれていない。そもそも主語がない文章もザラ。書いてる本人も文の最初で何を書き始めたんだか、文の終わりの頃には忘れているのではないか。論理構造がなく概念としての「用語」がなんとなく連結しているだけ。だから真っ当に訳したのでは英語にならないとか。
まあ「専門家」の書く文章が難解、というよりけったい、という話は何も日本だけではないようで、例えばアメリカ人が弁護士(lawyer)をからかった「Best Lawyer Jokes Ever」(ISBN: 1586636146)という本に「弁護士が切れた電球を換える」というジョークがあって、電球を換える手順を「弁護士が書く様な」英語で書いた文章を読む事が出来て結構笑えます。が、この例などは、論理的に追って行くと、なるほど確かに電球交換の手順を追っている、ということがわかります(パズルみたいですが)。アメリカの弁護士になる人はロースクールに入るために LSAT で論理的思考を試されて高得点の人しかなれない訳だし、そもそも法廷に立つ人は論理的な弁論展開ができなきゃ1勝も出来ずに廃業でしょうから、当然と言えば当然なのですが。
そう考えつつ前述の日本の「業界」の話に戻ると、その「業界」ではその「難解」な文章が論理的に破綻していると言うことを問題にする事はほとんどなく、逆に「そのような文章が書ける事がその業界で一人前の証」と、皆が一生懸命まねて、そういう文章を書く能力を「習得」しているのだとか。知的生産性の無駄遣い以外の何ものでもない、と私には思えるのですが、それよりも世界の眼から見て日本のその業界の特異性・理解不能性から、時代にどんどん置いて行かれるのでは、と言う方が心配です。
そして、この「日本語として破綻している」文章は、驚くべき事ですが学術論文の世界にも多く見受けられるのです。(というより今1つ読んでいます...;_;) さらに「こんな文章を書ける事が...」と模倣に励んでいる若い研究者も少なくない様に思えます。

投稿者 umemuro : 23:34
2004年09月04日
日本語と論文 (2)
(前回の続き) 前々から感じていたことですが、日本語って言うのは本当に論理的な文章を書くのに適さないな、と今回改めて思いました。
今回査読した中に、日本人が英語で書いた論文があったのですが、読んでいて何を言っているのかわからないのです。もちろん文法の誤りとかもあるのですが、まず抽象的すぎる表現が多い、というかそれだけで終わってしまっている。「私たちは特性を測ります」(もちろん英語)って言われたって、何のどんな特性を(どうやって)測るか言ってくれなきゃなんのことかわからない。それに加えて、前の文とそれに続く文が一見どういうつながりになっているのかわからないまま文が並んでいる。よって文章の論理構造が全くわからない、すなわち一連の文が、どういう主張に向けて組み立てられているのかわからないのです。
で、英語の文章を読みながらほとほと困った時に、これって日本語だと何なんだろうと考えると、あら不思議。もとの日本語が透けて見えるんですね。そしてもとの文章を日本語で通して「読んで」みると、何となくそれっぽく感じる。「ああ、この分野の(日本語の)論文にありそうな言い回しだな」と。ここで私にひらめいた仮説その1。日本語(の論文)は、論理構造なんかきちんとしていなくても、キーワード(それも出来るだけ小難しく気取ったもの)が並んでいればなんとなくそれっぽく見える!
そう思って今度は日本人の書いた日本語の論文を読んでみると、まさにその通りですね。冒頭からそれっぽいちょっと小難しくてでもカッコいい言葉を振り回して書いているから一見とても偉い文章に見えるんだけど、「この段落では何を言っていて、次の段落はそれに対して...」と冷静に論理構造を分析するとめちゃくちゃ。結局冒頭から延々と続いたこの文章はいったい何が言いたかったんだ...?!
と言う訳で、今回たどり着いたいささか過激な結論は「日本語(の論文)は、キーワードさえ間違えずしかも出来れば小難しいものを選んで、あとは適当に助詞と接続詞を混ぜればそれっぽい文章に見える。論理的な構造など考える必要なし! そして、日本人の書いた日本語の論文はそれが大勢!」というものでした。

投稿者 umemuro : 23:30
2004年09月02日
日本語と論文 (1)
夏休みっていうのは、私たち大学の教員にとってはある意味書き入れ時なんです。授業も終わり、ゼミもあまりない。だから自分の研究や論文執筆に集中できる貴重な期間なのです。
でも、今年の夏はなぜか超忙しかった(と言うより現在進行形で super busy なのですが)。一つには今年の9月卒業予定の修士と学部の学生が研究室にいてそれぞれ7月から8月にかけて論文をまとめて発表した、というのもありますが、やはり論文誌の査読が大きかったのです。
大学関係の方はご存知と思いますが、私たち研究者が論文を書いて学術雑誌に投稿すると、だいたい2〜3人の匿名の査読者(レフェリー)がつきます。査読者は大抵編集者が論文の内容に応じて指名するのですが、この夏はこのひと月ちょっとの間に、海外誌3本、国内誌2本の査読者に立て続けに指名されたのです。だから、ここのところ大体1週間に1本のペースで投稿論文の審査をしていることになります。
この査読者の仕事は、もちろん断ろうと思えば断れるのですが、ひとつには自分の論文を出したばっかりの雑誌だと断りにくい、という「義理」があります。自分の論文を出したと言う事は他の誰か2〜3人が査読をしてくれたということなので、1本自分で投稿したら2本くらいは査読をしなきゃいけないかな、という理屈です。もうひとつは、ある論文に対して適切な批判ができるかどうかということは、研究者の資質を試されていることにもなります。ですから特に海外の研究者(編集者)から査読者に指名されたと言う事は研究者の仲間と認知されたと言う意味で名誉でもありますが、それよりもきちんとした査読報告をする事によって研究者としての資質もアピールしよう、というハラもあります。さらにこれはあまりおおっぴらには言ってはいけないのかも知れませんが、自分の研究分野と関係のある論文の査読はすなわち発表前の他の人の研究をじっくり読んで勉強する機会ということ。この「勉強」の機会を逃すのは惜しいのです。
というわけで、結局全部引き受けてしまったのですが、その結果が今のこの「首が回らない」事態と成ってしまいました。こう重なる事は珍しいんですが、でも後でよくよく考えてみると、このシーズンは夏休みに入る前にと投稿が集中するシーズン。しかも欧米はバケーションシーズンで大学教授はみんな留守。だから夏だと言うのにあくせく働いている日本人にやらせてしまえ、ということだったのかな、などという気もして来ます。

投稿者 umemuro : 22:54
