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2004年08月30日

心をこめる

裏日記で書いた小澤征爾+ボストン交響楽団の幻想交響曲のテープで、演奏のあとに小澤征爾さんの短いインタビューが挿まれていました。そこで小澤さんいわく「音楽をやっていると技術というのはとても大事だ。... 技術はとても大事なんだけど、でも、やっぱり最後は心だ。僕らの心がお客さんに伝わった時にはじめて『音楽っていいもんだな』と思ってもらえる。それが音楽だ。」
これを聴いて思い出したのは、最近読んだ日経デザインという雑誌の「思索の糧」というコラムで、やはり「心を込めてデザインができるか。心を込めてモノがつくれるか。結局はそこからしか道は見えない。私は例え口うるさいオヤジだと思われても、若い世代に言い続けて行きたい。」ということが強調されていたことでした。
「そうか、やっぱり最後は心か。」そう思って、考えてみました。自分は今、心を込めて仕事をしているだろうか?でも、僕らの場合心を込めて仕事をするってなんだろう?
「心を込めて教育する」「心をこめて授業をする」というのは直感的にもわかりやすいのです。「相手」がいますから。学生諸君のことを第一に考えて、学生諸君の立場に立って考えれば、自ずと目指す道は見えてくるはず。音楽の場合も、ものをつくる場合も、それを受け取る人のことを考えれば心の対話が成り立ちます。でも「心を込めて研究する」ってなんだろう?研究には必ずしもその成果を待っている人がいるとは限りません。論文を読む人のことを考える?それはちょっと違うような気がするし...
今の所は、とことん誠実に研究に向かう事かな、と思っています。常に「この研究はどんな役に立つのか」「この研究の方法は正しいのか」「他にもっと良い方法があったのではないか」「何か見落としていないか、何か間違っていないか』と絶えず自問自答して、誠意を持って答えられる様にしておくことかなと。精一杯誠実に、人類の知の蓄積に新たな小石を置かせてもらう、それが心をこめる研究かな、と思っています。でも、もしかして「ユーザ」、あるいはその成果を待ってくれる人の顔が見えない研究は本当は意味が無いと言う事なのかも...という不安もちょっとありますが。
講堂

投稿者 umemuro : 2004年08月30日 00:18