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2004年07月28日
大岡山の「世界」
本学にこの春から来た留学生諸君は、4月から今月まで日本語の研修を受けて来たのですが、今日前学期日本語研修の修了式がありました。私は受け入れ教員としてお声がかかったので初めてこのセレモニーに出席してきました。
実は会場に着くと、約50名の留学生諸君が修了証/受講証を受け取っているのに、私の様な指導(予定)教員の出席者はたった3名。ありゃー、これは場違いな所に来たかな?と、内心ちょっと来た事を後悔し始めていたのでした。来賓の挨拶が終わる頃には。
ところが。受講修了の式典が30分ちょっとで終わり、引き続き修了生代表諸君の日本語スピーチの会になったのですが、これがおもしろいのなんのって。まず何よりも、この春ひらがなから始めた留学生諸君が、たどたどしいけど精一杯日本語でスピーチをする姿は、感動的ですらありました。それにみんな、日本の人、街、文化、社会について、実に多彩なしかも鋭い視点を持っていることがわかります。皆、日本に来る前母国から見た「日本」、大岡山に来てから見た「日本」や「日本人」について、実に面白い観点から話してくれました。時におおいに笑いを交えて。いや、やはりこの人たちは頭がいいんだ、と改めて思いました。
と言う訳で笑いあり感動ありの90分間。さすがに記念撮影とパーティーは遠慮しましたが、実に充実した時間を過ごさせてもらって帰って来ました。

投稿者 umemuro : 22:49
2004年07月25日
梅室のなぜ(4) なぜ blog なんぞを書いているのか
書き始めるきっかけはいろいろとあったのですが、今なんで書いているかと言うと、ひとことで言えばコミュニケーションのためですね。
誰との?まず第一に学生諸君と。特に学部の最初の3年間、研究室に入る前は、学生諸君から見て日々キャンパスですれ違う教員って人格の無い偶像ですよね。講義室の前に立って偉そうにしゃべったり課題を出したりするけど、音楽を聴いたり野球に興味を持ってみたり悲しんだりする(そしてもちろん研究もする)生身の人間であるとはなかなか思ってもらえないんじゃないでしょうか。4年生になって研究室に入って、飲み会などを何回かやっているうちにだんだんわかってもらえる様にはなると思うけど、それだってだんだんとで時間がかかるし、限界もあります。だから、日々そうそう一緒に雑談が出来ない代わりに、思い立った時にこんな日記を書いていると、梅室と言う人間がどんな事を考えている(あるいはどんな事しか考えていない)人間かわかってもらえるんじゃないか。そうしたら次に話す時にもっと話ができるんじゃないか。そんな事を思っています。
第二には、他の先生方とだけど、これはきっと「梅室がなに勝手な事ほざいてやがる」くらいにしか見てもらえないと思うからあんまり期待していませんが、「何考えているかわからないやつ」よりは「この程度のことしか考えていないやつ」と思われる方がましだと思いますので。
第三には、家族や友人とですね。離れたところにいる大切な友人や家族に、筆無精でなかなか便りを書けない代わりに「梅室はとりあえず今日も生きていて、大岡山でこんな事を考えたりやったりしています」という挨拶状のつもりで書いています。
そして最後に、自分との対話のため。日々いろいろ思う事、特にストレスのたまる事を自分の胸の中にためこんで、ひとりでそれを反芻していると、どんどん煮詰まって糸が引いて来ます。それを文章にして客体化することで、自分の考えと向き合えるのではないか。そんなことを期待しています。これはデイトン日記を書いている時に発見した事です。
この日記を書いている事は、ある意味自分をさらけ出して裸にして行く作業に他なりません。しゃべらなければわからなかったのに、話してしまったがために自分の限界が皆に知られてしまう。「なんだ、この程度の人間か」と。だから怖い面もあります。それでも、上に書いたような期待できるメリットの方が大きいと思っているので、今日も書いています(^^)

投稿者 umemuro : 21:22
2004年07月23日
教えて下さい
私はプロ野球の世界に詳しくないので、誰か教えてほしいのですが、なぜ日本のプロ野球界はナベツネが仕切っているのですか?傍から見ていて、どうしてもあのヒトがひとりで状況を悪くしている様に見えて仕方ないのですが。
その提案の是非はとりあえず置いておいて、近鉄が命名権の売却を表明したときも、あのヒトがひとりで潰したんでしょう?(くどいですが是非はともかく)あれが実現していたら少なくとも合併しなくてはならない状況は回避できた可能性が高いと思うのですが。
↑のどこかが何か間違っていたら教えて下さい。

投稿者 umemuro : 22:14 | コメント (1)
2004年07月20日
今日のただの泣き言
都心の最高気温39.5度。睡眠時間3時間。
死にそうだ...

投稿者 umemuro : 23:38
2004年07月17日
梅室のなぜ(3) なぜ梅室は人の顔が覚えられないのか?
これはホントに誰かに教えてほしいです。私は人の顔を覚える事、人の顔と名前を結びつける事が大の苦手です。自分の職業にはある意味大事な資質だと思うのに...
今月の始めころ、つくばへ行く用事があってその帰り、私はバスの中ですっかり熟睡して帰って来ました。そして東京駅でバスを降りて改札に向かって歩いている時に、後ろから「梅室先生」と声をかけられたのです。ところが、ついさっきまで眠りこけていて頭がポーッっとしていたこともあって、顔は見覚えがあるんだけど誰だったかどうしても思い出せない。なんとか当たり障りのない話をして場をごまかして、彼と私はそれぞれのホームへと別れたのでした。
結局彼が○○研究室の卒業生の××君だと気が付いたのは、それから10分位して、電車の席に落ち着いてから。××君ごめんなさい。君を忘れた訳じゃないんです。梅室は人の記憶がなかなか出てこないんです...

投稿者 umemuro : 22:45
2004年07月15日
「きれいな」花のレゾンデートル
先日、サントリーらが開発した遺伝子操作による「青いバラ」の写真を見ました。写真を見たとき「きれいだな」と思いました。「きれいな」淡い青紫のバラ。「きれいな」と括弧付きで書いているのは、色そのものはとてもきれいだし、花としてもきれいだと思うのですが、これが「バラ」であることって、ある意味怖い事なんじゃないかと思ったからです。
報道されているところによると、青いバラは「不可能の代名詞」とされ、1000年近く多くの育種家が挑戦してきたけれど作る事ができなかったとのこと。つまり自然界に存在し得なかったと言う事です。それが今遺伝子操作で目の前に存在しています。これは実は、8本足の犬とか、4つ目のネコと同じレベルで「おぞましい」ものなのではないか、とふと考えてしまったのです。
件のバラは「生態系への安全性が確認できるまで」ガラスケースの中に密閉されて展示されていました。多分バイオ、特に遺伝子操作の技術は、前世紀の前半に人類が原爆で直面したのと同じ問題を考える局面にさしかかっているのだと思います。よく言われる事ですが、技術的に実現可能な事と、実現すべき事と、実現してはならない事を区別しなくてはならない時期に来ている、ということです。そして時としてそれはその時点は難しい作業です。かのアインシュタインでさえ原爆開発を当時提言してしまった事を、後年後悔しています。一方遺伝子操作は今各国で安全基準つくり、つまり何が安全で何が安全でないかの線引き作業をしているようですが、安全基準と言ったって現在までにある概念としての「安全」しか考え得ないのではないでしょうか。遺伝子を操作している訳だから、全く未知のタンパク質を作る可能性がある。それが今狂牛病(BSE)を引き起こしている異常プリオンの様に、人間を含む生態系にダメージを与える物である可能性は否定できないのでは。そんななかでそれでも基準の線引きをしようとしている。その基準が「きれいだから」とか「人の役に立つから」とか「金になるから」といった危ういもので無い事を祈るばかりです。では何を基準にすれば良いか、と聞かれれば、私が答えられる唯一信頼できる安全基準は「自然界に存在して来たもの」。少なくともそれらは安全である事、あるいはどの程度の危険があるのかを把握できているのですから。
それともあと40年後くらいには、8本足のゴールデンリトリーバーが元気に公園を走り回っていて、「犬は4本足でなくっちゃ」という私は超保守的、超懐古主義、超「ダーウィン主義」とでも呼ばれる様になっているのでしょうか?

投稿者 umemuro : 12:40
2004年07月13日
梅室のなぜ(2) じゃあなぜ研究室の学生にはWindowsなのか?
たとえば知人が私のところへ来て尋ねたとします。「車買うんだけど何がいい?」私はトヨタを薦めますね。たとえ自分自身がフェラーリに乗っていたとしても。だってトヨタは安いし、数も出てる。ドライブにも葬式にも使える。雑誌や本もたくさん売ってるし、ディーラーの工場もそちこちにあるし、部品も手に入り易い。それと同じ理由ですよ。
今 Macintosh を使っている人の状況は、一昔前、日本の道路交通のファシリティが右ハンドル車を前提にして整備されていく中で、好きで左ハンドル車に乗っている人に似ていると思います。そしてたまに「いい加減高速道路の料金所が不便だからトヨタに買い替えたよ。でも決して乗り心地がいいとは思っていないんだけどね」なんて人もちらほら見受けられる、と。

投稿者 umemuro : 00:59
2004年07月11日
Fairy Tale
先日ゼミで「ロボットが感情を持つとはどういうことか」という議論をしていました。その中で「2001」や「Star Wars」などと並んで、スピルバーグの映画「A.I.」も話にのぼりました。
で、ゼミが終わった後学生諸君が話をしているのを聞いてちょっと驚いたのですが、どうやらあの映画の最後の部分(=海底のシーンより後)は要らない、と思っている人が結構居るようです。(ここから先は映画を見ていない人はわからないと思います。ごめんなさい)
私はあの映画はキューブリックの「おとぎ話」だと思っています。ピノキオをモチーフにすると言う再帰的なことをしているし、SFXのふりもしてもいますが、実はあれはキューブリック流の壮大な「おとぎ話」に他ならない。だから最後のシーンは絶対に必要だ、というのが私の意見です。
だって「海底のシーン」で終わっちゃったら、ただのSF映画じゃないですか...

投稿者 umemuro : 00:06
2004年07月10日
Even Worse for Japan?
先週アメリカの映画館で Michael Moore の "Fahrenheit 9/11" を見てきた知人が言っていました。「参議院選挙前に日本でこの映画が公開されなかったのは、きっと誰かの謀略に違いない。もし選挙前に公開されていたら、現政権の敗北はまず間違いないだろうから。」
そんなことが実際にあったのかどうか知りませんが、まあこの国ならありそうなことだな、と思いました。例の「愛国心」の法制化の議論も参院選後に先送りして今は誰も触れないし、この前の出生率の発表でも似たようなことされましたし。
以前ここで Disney を批判しましたが、もしも上記のような事が本当にあったのだとしたら、「うちは配給させない」と堂々と発表して避難を浴びるだけ Disney の方がまだましかな、と思ったのでした。それにそういうことをちゃんと突っつくアメリカのマスコミも。日本のマスコミでそう言う事に気が付いて調べてみたところはあったのでしょうか?

投稿者 umemuro : 01:51
2004年07月09日
情報の非効率性 (5)
(前回の続き) 以上のような考えから、私は大学院では「知識の伝授」の授業はやりません。授業として集まらなければできない事をやります。
学部の授業は「基礎固め」ですので、既に本になっている知識を伝授すると言う授業をやります。(もちろんこれまでの議論から、ある意味大学としては低レベルなサービスと言われかねないということを承知の上で。)
そのかわり、大学院になったら情報は効率的であるという前提、すなわち本や論文を読んでわかることは既に手の届くところにあるんだから自分で勉強してね、という前提で、その上で自分で考える事、自分で発見する事を中心に授業をやるよう心がけているつもりです。

投稿者 umemuro : 13:01
2004年07月08日
情報の非効率性 (4)
(前回の続き) 考えてみると、学者という人種は、ことさら本に書いてあるような一般的な知識には重きを置かない傾向があるようです。本に書いてあるような事は、もう全ての人が知っているも同然。すなわち情報は効率的であると言う立場です。だから誰かが論文で発表してしまったようなことは自分では研究しません。「新規性」がないからです。どこかの本の受け売りは最も蔑まれる行為と受け取られます。では何を重視するか? もちろん、自分で考えた事です。そのオリジナリティこそが学者の価値そのものなのです。
一方現実の世界では情報は非効率、すなわちある情報を知っている人と知らない人がいる、という前提で動いていますよね。だから金融市場ではアービトラージが起こりうるし、他の(特に海外の)誰かが言った事を顧客の前で話してお金をとる経営コンサルタントも存在できるわけです。
これはどちらが本当とか言う話ではなく、立場とか価値観の違いの問題だと思っています。ただ我々は、本を読めば書いてあることよりも、それはいったい自分にとってはどういう事なのか、それどう使って現実の問題を解くのか、自分で考える事が重要だと思うし、学生にも求める「くせ」がついている、ということなのではないかと思っています。

投稿者 umemuro : 13:07
2004年07月07日
情報の非効率性 (3)
(前回の続き) 抽象化・一般化され、きれいに記述された「知識」を「AはBなんですよ」と教わると、「そうか、AはBなのか」とわかった気になります。でも哲学や数学で無い限り、それだけでは現実の問題に対処できない事が多いのではないでしょうか。それは工学の分野の研究でも、ビジネスの実践でも同じ事だと思います。一般化された知識を受け取ったら、「それは自分にとってどういう意味を持っているのか」「それを使って今自分の持っている問題をどう考えればよいのか」ということを自分で考えてはじめて得られる理解、それこそが真の「知識」では無いかと思います。
もちろん授業の限られた時間と場所で、仮想的な例題で上記のような理解が得られるかと言えば疑問はあります。それでも「ああ、わかった気になっていたけど、実はよくわかってなかったんだな」「ああ、こう使えばいいのか」ということに気がつく貴重な機会、きっかけである事には変わりありません。その機会を棒に振ってしまうのは私の感覚からはもったいないなあ、と思うし、「もしかしてこの人は、一般化された形で情報を単に伝授されることを勉強する事と勘違いしているのではないか」、という危惧を覚えるのです。

投稿者 umemuro : 07:37
2004年07月06日
情報の非効率性 (2)
(前回の続き) さて本題。講義室に座っていてもうひとつ気がついた事は、学生諸君がトイレに行くパターン。講師の先生は、説明の中に時折例題を交えて学生に考えさせ、何人かを指名して考えを聞いたりしてくれるんですが、おもしろい事に、説明を聞いている間は一生懸命ノートを取っているのに、この例題の時間になるとトイレに行く人が多いのです。(たまにジュースを買って帰って来るやつもいるけど。)
授業中だから捕まえて理由を聞いてみる訳にもいかないので、自分で理由を考えてみたのですが、まず考えられるのは自分が指されない様に逃げる、という原始的な理由。でも他の人、それも自分より遠くの方の人が既に当たっていてもトイレに行くし、そもそもそんなに難しい問題でもないからこれはちょっと違うかな、と。次に考えられるのは、説明の間はノートを取るのに忙しいけど、例題の間は時間に余裕ができる、という理由。でも例題の間もスライドを使うことに変わりは無いし、一通りスライドを書き写してからトイレに立っているようでも無いので、これも違うんじゃないか。で、最後に行き着いた仮説が、もしかしてトイレに立つ人は、説明をしている間のきれいに抽象化・一般化され、きれいな言葉にまとめられた「知識」を聞く事には重きを置くけど、例題の間は新しい「知識」は来ないからと、それほど重要視していないんじゃないか、ということ。例題になったとたんに席を立つタイミングからも、これが一番もっともらしい様に思えます。でも、もしそうだとしたらこれは深刻な問題なんじゃないか、と私は思うのです。

投稿者 umemuro : 08:14
2004年07月04日
情報の非効率性 (1)
今学期ある授業で、学生と一緒に机に座って講義を聴いています。学外の非常勤講師の先生の講義で、ビジネスの一線で活躍している先生方のお話は大変刺激になります。
と同時に、日頃講義室の前に立って話しているとなかなか見えない事も見えて大変おもしろいです。先週だったか、授業が終わる20分ほど前に来て私の隣の席に座り、20分間必死にノートをとっている私の隣で何もせず下を向いて座っていて、授業が終わると出席簿に名前を書いて帰った学生が居ました。まあ、教員の立場の感情的には単位なんかやるものかと思うし、特にこの授業の場合講師の先生にとても失礼だと思うのですが、あえて違った見方をすれば、金(授業料)だけ払って、対価を要求せずに帰るわけですから、ビジネス的にはこんなにありがたい客はいないという考え方もありかな、と。特にこの授業の場合、卒業後に一般向けのセミナーで同じ話を聴こうと思ったら、本学の半年分の授業料くらいは請求されてもおかしくない話を棒に振っている訳ですから、もちろん損するのは本人。これで授業に文句をつけない(=評価には口を出さない)という良識だけ持っていてくれたら、そういう人はそういう人で放っておいていいのかも。そんなことを考えていたら、今週は終了5分前に来て本当に出席表だけ書いて帰った人も居たので、さらに上手がいるもんだ、とあきれるを通り越して半ば感心してしまいました。(念のため、学生と講師の先生の名誉のために言っておきますが、この授業は熱心に聴く学生は大変熱心に聴いていて、時間中前列で食い入る様に話に聴き入っている人たちも多い事を付け加えておきます。)

投稿者 umemuro : 20:51
2004年07月01日
梅室のなぜ(1) なぜ Mac を使うのか
このご時世に Macintosh を使い続けていると「なんで Mac なの?」と聞かれる事がたびたびあります。(ちなみに大学院から会社に居る間は UNIX geek でした。初めての Mac を買ったのは大学に戻ってからじゃないかな?)
今までは、その時々なんとなく「インターフェースの重要な研究の多くは Mac でなされて来たし」とか「使っているとわかるけど、実に細かいところまでユーザの立場に立った行き届いた設計がされていて快適なので、Windows に移る気がしない」とか答えていたのですが、最近 Donald Norman の著書 "Emotional Design" を読んで、初めて理由がはっきりわかった気がしました。
実は私は仕事の内容によっては Windows も使います。Windows 3.1 から数えてインストールした数は延べ100台を超えてるはず(もちろんその前はDOSも)。ただ依然として仕事のメインを Windows に移す気がしないだけです。で、Windows と Mac を使い比べてみて思う事。
Windows は、Norman の言うところの behavioral level、世間でいうところのユーザビリティ (usability) レベルを高めるように設計されているのではないかと思います(それでも Microsoft の製品は OS も application もユーザビリティは低いと思いますが)。それに対して Macintosh は、behavioral (ユーザビリティ) level はもちろんのこと、それより下位の visceral level も上位の reflective level も、全ての情報処理レベルで利用する人に満足を与えるから。これが最近気が付いた「私が Mac を使い続ける理由」です。
Windows は、visceral level では言わずもがな (なんでも Windows XP のアピアランスを MacOS X の aqua 風にするのに凝っている人が世界中に何万人も居るそうですね)。Reflective level で Windows が満足を与えるとすれば、難解で勉強しないとマスターできない技術を苦労の末手なずけた達成感くらいでしょう。私にとってコンピュータは創造活動の道具であり、ハッカーになるつもりはありませんので、この手の reflective level の満足はご免です。一方で去年の8月に来日した時、Norman が iPod を例にとって言っていましたね。「Apple の製品は、それを使っている人に自身が "special" な人間であると思わせてくれる」と (もっともこの "special" は、穿った見方をすれば "奇人" にもなりますが、その辺の joke も引っ掛けた発言だったのでしょう)。 以上の viceral, behavioral, reflective の議論をもっと知りたい人は、是非 Norman の本を読んでみて下さい。
なお、Mac を使わない理由に「Windowsユーザと Word のドキュメントなどを交換する時にフォーマットなどが狂うから」といった点を挙げる人が居ますが、これは日本語のドキュメントの話か、MacOS 9 以前の話かのどちらかですね。私は海外と英語の Word のドキュメントを交換しながら仕事をしていますが、OS X と Office v.X の環境で、フォーマットで困った事はありません。

投稿者 umemuro : 23:55