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2004年03月31日
クリーニング屋にて
先日仕事帰りにクリーニング屋にスーツを引き取りに寄りました。そこであきれるを通り越しておかしくなるような場面に出会ったので。
私の前に男性がひとり、やはり引き取りにきていたのですが、
「控え持ってきてないんだけど」
「いつお出しになりましたか?」
「よくわかんないんだけど先週」
「15日とか16日とかですか」
「多分そのくらい」
「何を出しましたか?」
「コートとかスーツとか...」
「全部で何品ですか?」
「よくわかんないんだけど...」
端から見れば、洋服盗みに来ている以外の何ものでも無いんですけどね。しばらくやり取りを聞いていて、これで店員が何らかの品物を渡すようであれば、私は二度とこの店を使うのをやめようと思っていました。が、結局
「日付がわからないんじゃ探しようがないんですけどね」
「...一回家に行って探して来るわ」
「その方が早いと思いますよ」
でケリがつきました。
しかし、私なら控えを忘れたらその日は pick up できないと思ってあきらめて帰りますが、「忘れたと言えばなんとかなる」と思う人が世の中には居るんですねえ。これがアメリカだったら「控えが無ければお渡しできません」の一点張りでしょうね。だって万が一ドロボーにせしめられたら、あるいは盗む気がなくても間違って他人が服を持っていって行方不明になったら、当然店の責任になりますからね。先の店は親切でやっているつもりなのかも知れないけど、本来「皆様の大切な衣類を万一の事故から守るために、当店では控えをお持ちの方にしかお渡しいたしません」と言うのが客に対する誠実なサービスだと思うんですが。(もちろんさらに上級なサービスとして、店員が客の顔を覚えていて、その客が何を預けたか全て覚えていて、客が来店した瞬間に品物を取りに行く、というレベルもあるとは思うけど、ごく普通の、スーパーの中にあって一日何百人が来るクリーニング屋では望むべくも無く。) こういう的外れな「サービス」=客のあまやかしが、先のような、基本的なルールさえ守れないくせに自分の都合が何でも通ると思ってる客を育むんでしょうね。そしてそういう客に限って、上のような事を言って断ると「俺をドロボーだとでも言うつもりか」とか馬鹿な事を言うんですよね、きっと。とにかく、日本は客をあまやかしすぎて客の質を落としている、と思うのですがいかがでしょう。

投稿者 umemuro : 02:32
2004年03月29日
JAIST訪問
シリーズものが長引いたり卒業式があったりで若干遅くなりましたが、先週 JAIST: 北陸先端科学技術大学院大学を訪問し、吉田武稔先生をはじめ何人かの先生方とお話をさせていただく機会を得ました。(ご縁をつないで下さった妹尾先生に多謝)
先生方のお話はみな刺激的で、「世の中にはすごい事を考えてやっている人たちが居るんだなあ」と感銘を受けるばかりなのですが、それにも増して(失礼)圧巻だったのが大学のファシリティの充実度。例えば下の写真の2枚目は、教官の机ではありません。学生室の学生一人のスペースです。その他にもゼミ室、講義室、図書館など、写真を撮り忘れるほどの(:->)すばらしさ。お金をかければ良い、というものではなくて、「良い研究環境はかくあるべき」という明確なビジョンなくしてはこういう環境は作れないと思います。私も日ごろ学生の研究環境についてあれこれ考える事が多いだけに、おおいに inspire & encourage されて帰ってきました。(私自身の学生の研究環境に関する考えは、また日を改めて。)


投稿者 umemuro : 18:00
2004年03月27日
うれしいプレゼント
昨日の謝恩会で、4年生の諸君から素敵なプレゼントをもらいました。Alessi の tea-strainer "Te O" (本当は O の上に ` が付くんだけど...)。Stefano Pirovano のデザイン。すごい。みんないいセンスしている... また私のお気に入りのコレクションがひとつ増えました。みんな、どうもありがとう。



投稿者 umemuro : 11:22
2004年03月26日
おめでとうございます
今日は本学で学部と大学院の学位授与式が行われました。雨があがるのも式に間に合ったようです。
私は式には出席しませんでしたが、研究室にもどって来た卒業生の、普段着慣れないスーツに乗っかった晴れやかな顔を見ると、やはりうれしくなります。
進学する人も、就職する人は特に、4月以降新しい環境の中で大変なことも多いでしょうが、がんばってほしいです。おめでとうございました。
さあ、もうすぐ新学期だ。

投稿者 umemuro : 16:36
2004年03月25日
フツーの人の静かな暴力 (5)
(前回の続き) 何も言われない範囲なら許されると思っている「普通」の人たちから、無言で押し付けられる、絶え間ない「暴力」。この状況をもしなんとかしたいと思ったら、私たちはどうすべきなのか。
正直言って私には正解はわからない。先の「ルールに違反したときに何が起こるか」の議論からすぐに思いつくのは、なんらかの「罰」、つまりネガティブなフィードバックを与える事である。みんなもっと怒ろう。可能ならアメリカのように訴訟に持ち込もう。心理学屋さんの理論によれば確かに有効だろうし、もしも怪我をしたとか重大な損害を受けた場合には当然行うべきことだ。だがその他の場合には実際困難がある。以前関西の電車の中で、お年寄りが近くに立っているのに優先席に座って携帯電話を使っている女子高生に(関西でも優先席付近は携帯電話をOFFにするルールのはず)、怒鳴った上暴行したとして逮捕された男がいたと報道された。私個人としては、この男は怒るところまでは良かったと思う。しかし、暴行してはいけない。でも実際にこういうことをやろうとすると、ケンカ沙汰になることは少なくないのではないだろうか。いわゆる「逆ギレ」。理由はもちろん、普段あまりにも何も言われないので、他人が不快感を示したり、ルール違反を指摘したりすることが理解できないから。それに加えて、年配の世代でも多分権力崇拝の裏返しで、警察など権力に何か言われるのはわかるが、普通の社会の構成員である他人に何か言われるのは許せない、と思っている人も少なくないようである。いずれにしろ、自分に非があると思えない(気が付けない)人間にネガティブなフィードバックを与えるのはリスクを伴う。
もしもネガティブなフィードバックで行くなら、「小さい」フィードバックを、しかし出来るだけ多人数が同時に与えるようにするのが良いのではないだろうか。例えば、誰かがホームでタバコに火をつけたら、一瞥する。これだけでも「あなたの行動を私は気にしている」というサインになる。そして、もし10人に一斉に一瞥されたら、たとえそれでキレるにしてもいったい誰にキレたらよいのかわからないだろう。そして不愉快に思っている人間が決して少数派でないことを悟るだろう。この場合、そういう行動をした時にできるだけ頻繁にフィードバックを受けるよう、マメに実行することが大切。でも誰でも心がければ簡単にできる事でもある。
ネガティブなフィードバックは何よりもその場を管理する立場にある機関に強くお願いしたい。本来胸を張ってそれが出来る立場にいるのだから。例えば先日禁煙のホームのベンチで平気でタバコを吸っている男の横で、こそこそとホーキとチリトリで黙ってゴミ拾いをしていた駅員がいたが、私に言わせればただの給料泥棒。「一応お客様だから」ということで機嫌を損ねたくないという言い分なのかも知れないが、一人のクズのような客の機嫌を取る代わりに、他の多くのきちんとルールを守る客の信頼を裏切っていることに気が付いていない。
ネガティブなフィードバックよりも、個人的に勧めたい、お願いしたいのは、ポジティブなフィードバックをきちんと返す事。先の電車の7人がけの座席の例なら、私の目の前で詰めてもらったら、どちらでもいいな、と思っても出来るだけ座るように心がけている。詰めた甲斐があったと思ってもらえるように。そして軽く会釈するのを忘れないように。年配の方も、席を譲られたら、たとえ一駅でも座ってほしいと思う。また、良い行動をきちんと認める事。ぶつかられた時、謝って来たら無視せずきちんと応対する(かせめて会釈する)。優先席で携帯電話の電源を切る子供がいたら一言褒める。ホームのタバコの吸い殻を拾う子供がいたら一言褒めて、「俺に対する当てつけか」などという言いがかりをつけてくるバカな大人からきちんと守る。確かに気恥ずかしい。でもどうせ勇気を出すなら、ネガティブな事を言うよりずっと気が楽なはず。こうして良い行動が人々の間にじわじわと学習されていけば、必然的に「静かな暴力」も影を潜めていくのではないか、と思っている。
まだ「正解」はわからない。でも「世の中なんて変えられない」と必要以上に無力感を覚える必要はないと思う。私たち自身の行動で、人の行動も少しずつ変えられるはず。

投稿者 umemuro : 22:37 | コメント (2)
2004年03月23日
フツーの人の静かな暴力 (4)
(前回の続き) 第三の、そしておそらく最大の要因は、ルールを守らなかった時に何がおこるか、だろう。
例えば私がアメリカにいたとして、街で誰でもいいから知らない人にすれ違い様に肩をぶつけて、何も言わずに歩き去れ、と言われても怖くてとても出来ない。地下鉄のホームでタバコを吸ってみたら、すぐに誰かに何か言われて、下手をすると駅員事務所か警察に連れて行かれるだろう。道路は一般に歩行者優先が徹底しているが、走ってきた車の前を急に横切ったらどんな罵声を浴びせられるかわからない。
実はこういったことは、数十年前の日本でも普通に見られた事である。でも今日では、人々はみごとに何も言わない。これは当然「ルール違反」を助長させる。すこし古いが行動主義心理学的に考えれば、例えば駅のホームの喫煙エリア以外でタバコを吸ってみる。別に何も嫌な思いはしない。誰も何も言わないし。一方で、仕事帰りに一服できて気持ちよかった。さらに先に書いた様に、何となくルールを破った自分が強くてカッコ良く思えたりという勘違いもする。「罰」が何もなく「ご褒美」だけがあるのだから、当然その行動は学習(強化学習)される。その人は次の日もタバコを吸うだろう。朝のギューギュー詰めの電車で、両肩で周りの人を押しのけて新聞を読むスペースを作る。背中を押しのけられている人は、大変不愉快な思いをしながらも、何も言わない。当人は新聞が読めてハッピーだ。こうしてこの行動は学習されて、次の日もその人は他人を押しのけるだろう。(同じ理屈で、電車の中での喫煙が多くなるのも時間の問題のような気がする。)
一方、最近では電車の7人がけの座席に7人座るためには最初に座る6人の良識的認識が必要、という状況になってたが、一方で、7人がけに7人座ると結構窮屈なためか、立っていても最後の一人分の空きに座らない人が増えてきた。すると、最初の6人が「あと一人座れるように」と詰め合わせて座っていても、心遣いと努力が報われない。逆に狭い思いをして損をした、と思う。「褒美」がなくて「罰」があるから、この行動は抑制される。「もう次からはそんなに他人の事考えるのやめよう」という事になりかねない。
上にも書いたが、つい二、三十年前までは、日本人はよく怒り、怒られた。しかし今、そういうことを言われずに育った世代が親になり始めた。彼らは、自分の行動で不利益、不愉快を被った人が不快感を表明するのを、あるいは同じ社会の構成員としての他人がルール違反を指摘するのを、理解できないかも知れない。だから、自分の子供が注意されると「こわいおばちゃんがいるから向こうへ行こうね」になってしまう。私は以前、列で並んでいるときに私の前に割り込んできた大学生くらいの女性に注意したら、「(あなた)感じ悪いですね」と言われた事がある。(念のために、彼女の行為は軽犯罪法違反である。)私の大学の学生の多くがこんなもんだとは思いたくないが、でも世代の中では決して少数派でもないのだろう。
こう考えてみると、今の日本(あるいは東京近辺)の状況を作ったのは、実は私たち自身なのだと思えてくる。

投稿者 umemuro : 08:26
2004年03月21日
フツーの人の静かな暴力 (3)
(前回の続き) 第二に、島国・単一農耕民族特有の過度の同一性の仮定、ひらたく言えば「他人は自分と同じ」という思い込みがあり過ぎるのだと思う。近年「個性の時代」と言われてきたとは言え、まだ日本人は無意識のうちに「隣の人は基本的なところでは自分と同じ価値観を共有している」と思い込む傾向があると思う。一方アメリカで私が地下鉄に乗っている時、隣に座っている他人が自分と同じ考え方をしていると思うことはまず無い。唯一の例外は、持ち物や読んでいる本から明らかに日本人とわかる場合。そんな時「自分とは違う人たち」の間で生活していた間のいろいろな不自由やストレスの反動からか、つい「あ、この人ならわかってもらえるだろうな」などと思ってしまう。実際には他のアメリカ人と同じ、「他人」であることに変わりはないのに。
それと同じことを、日本で日本人の間で暮らしていると多くの人々が無意識のうちに思っているのではないかと思う。だから、他人にあまえる。「いいじゃない、このくらい」「こんだけ隅にいるんだから、タバコくらいいいじゃない」と言う。実際には「タバコくらい」の持つ意味は、オフィスで普通にタバコが吸える会社の部長さんと、家族に誰もタバコを吸う人がいなくてしかも幼い子供の手を引いているお母さんとでは全く違うのに。「かばんがちょっとぶつかっただけじゃない」と言うのはぶつけた人間の立場だ。ぶつけられた子供は顔に切り傷を負ったかもしれない。そして私は個人的には、ある行為がどう言う意味を持つかは、常にその行為で不利益を負った人間の立場で評価するべきだと思っている。

投稿者 umemuro : 12:20
2004年03月20日
フツーの人の静かな暴力 (2)
(前回の続き) いろいろな要因があるしいろいろな説明が可能だと思う。知人の一人は欧米と日本とでは社会の成熟度が違うからだ、と言う。直感的にとても納得する一言なのだが、ではその「社会の成熟度」って?私なりに解釈すると、まず第一に社会のルールに対する考え方。アメリカでは社会のルールは守らなくてはならない共通の決まり事。ここでタバコを吸うなと言われれば吸わない(もちろんアメリカにも「政府がなんと言おうと俺は銃を持つぞ」という人も居ますが、ボストンの街中では滅多に会わないと思いますよ)。
ところが日本には「守らなくてはならないルール」と「守らなくても良いルール」があるように思える。例えば電車の中で携帯電話で話さないのも「マナー」。ホームでタバコを吸わないのも「マナー」。「マナー」という言葉は、日本では長く「身につけておかないと恥ずかしい、あるいは身につけておくべき」行動規範というニュアンスで使われてきたように思える。だから、別に自分はマナーが悪いと思われたってタバコが吸えた方がいいや、という考え方もありうる。
なぜはっきりと「禁止」と言えないのか。おそらく理由は、日本で拘束力を持つためには法律になっていないといけない、という考え方からだと思う。法律に書いてある事はやってはいけない、法律に書いてない事はやっても良い、という考え方。だから、飛行機の中で煙草を吸うようなバカを引きずり降ろすのにも、国が法律を作るまで待たなくてはならなかった。でも、だとするとこの違いは、コモン・ローの国であるアメリカやイギリスとの間だけに見られる事かも知れない。ヨーロッパの、同じく成文法の国の事情に詳しい人に聞いてみたいところだ。
さらにもう一つ悪い事に、特に男性に見られる傾向だが、ルールをあえて破る事で自分の「強さ」を誇示できると思っているフシのあるつまらない人間がたまに見受けられる。ヤ○ザやハイティーンの不良じゃないんだから...

投稿者 umemuro : 11:10
2004年03月18日
フツーの人の静かな暴力 (1)
海外(私の場合は特にアメリカ)から日本に帰って来ると、いつもがっかりすると言うか、居心地の悪い思いをする事が多々ある。それは大体成田空港で飛行機を降りた直後から始まる。列に並んでいれば横からつつつっと寄ってきて知らん顔して割り込みをする。カートを人の足にぶつけても知らん顔して行く。私がただ立っていると、向こうから来て肩でぶつかってそのまま去っていく。電車に乗れば禁煙のホームで平気でタバコを吸う。満員電車で、他人を背中で押しのけながら新聞を広げる。... こういったことは、アメリカではまず考えられない。いや、もちろんアメリカでもいわゆる「柄の悪い」、治安の悪い地域に行けばもっといやな、と言うより怖い思いをするかも知れない。でも、例えばボストンで、そういう特定の地域に足さえ踏み入れない限り、普通に都市の中心部で地下鉄に乗っていたり空港を使っていたりして、上のような目に会う事はまずない。禁煙とされているところでタバコ吸っているやつはいない。人とぶつかることは滅多に無いし、たとえぶつかったらまず間違いなく "Excuse me."と言う。一方で、日本では街中のごく普通の場面で、あるいは日本の玄関と言われるような空港でさえ、周囲の人間から様々なストレスをかけられる。そう言う意味で、日本(あるいは東京)は、アメリカの普通の(先ほど言った治安の悪い地域でないと言う意味で)地域よりもずっとストレスのかかる、過度な危険は無いけれどある一定レベルまでのアタックをごく普通の人から頻繁に受けるという意味で「治安の悪い」場所だと言って良いと思う。なぜだろうか。

投稿者 umemuro : 23:30
2004年03月12日
「地下」の報道?
高崎で幼い子供の命が奪われた事件は、本当に痛ましい。私自身には子供が居ないが、身近に最近子供が生まれた人たちが居る。彼らが自分たちの子供を愛する様を見ていると、今回子供を奪われたご両親の悲しみの大きさは推し量るにあまりある。本当に悲しい、というより存在が許されない事件だ。
しかし、今回私がさらに首をひねったのは、この事件が報道された直後、今度は東京でやはり幼い子供にいたずらをしようとして逮捕された男がいたことだ。なんで?高崎の事件がこれだけ大きく報道されたばっかりなのに。自分が同じように捕まって、社会から絶大な避難を浴びる事になる、なんてことを考えないのか...
そういえばこれと同じような疑問を少し前に感じた事がある。例の牛丼が街から「消える」時、牛丼のチェーン店に行って牛丼が無いと言われて暴れて捕まった男が居た。最初はまあそんなアホもいるかな、と思っていたが、そんなニュースが流れてしばらくして、また別のところで同じように暴れて同じように捕まったやつがいる。ニュースとか新聞見ないのか?
犯罪者が取り調べの中で動機として「他の人間がやった事件の報道を見て、自分でもやってみようと思った」というようなことを述べた、と報道される事がある。模倣犯。以前の「おれおれ詐欺」なんかはこのパターンだろう。でも、こんな事件が起きて犯人が捕まっていない、という報道ならまだしも、犯人が捕まった、という報道を見て自分もやってみようと思う人間の心理は理解できない。
そう考えると、実は表面的な報道とは別に、しかもそれをはるかに上回る量で「こんな犯罪やってみたら、うまくいったよ」というような情報が流通している「地下」の情報ルートが存在しているんじゃないのかと不安に思えてくる。特にインターネットのどこかで。
まあ、牛丼の件は、単にニュース見ていないだけだと思うけど...

投稿者 umemuro : 23:50
2004年03月07日
Tufts日記(3)
前回の続き。AppleStoreへ行ったついでに同じモールにある BESTBUY と BORDERS を少しうろうろしてきました。 BESTBUY は、なんといったら良いのでしょう...ビックカメラとTower Records を合わせたような感じかな...AV+コンピュータ+ケータイ他のハードとソフト両方を売っています。BORDERSは、基本的に本屋ですが、最近のアメリカの本屋のご多分にもれずcafe が併設されていたり、CDやDVDも売っていたりします。
BESTBUYは最近のelectronic gadgetsを眺めるのを、BORDERSは買おうと思っていた本を探すのが主たる目的だったのですが、両方の店で共通して印象的だったのが -- これは知ってはいたのですがあらためてすげーなーと思ったのは -- 日本のマンガとアニメですね。いやあ... ドラゴンボール、セーラームーン、エヴァンゲリオンあたりはあたりまえで、キディ・グレイドとかトライガンとか日本でも名前聴いた事あっても観たことないぞ、というのがドンとboxで並んでたりするし、本屋には少年ジャンプの英訳本や「マンガの書き方」本があるし。
それらと並んでちょっと面白そうだったのが、韓国のマンガですね。本屋で、非常に緻密な絵なのでこれは日本の少女マンガの英訳本だろうな、と思ってめくってみたら、効果音(吹き出しではなく絵に書き込まれている音)がハングルでした。ちょっと興味を引かれて、買ってみようかと思ったんですが、「少女マンガ」のカテゴリーがブレーキになって結局買いませんでした。でも今考えてみると、買ってくれば面白かったかもとちょっと後悔。
あ、ちなみに、明らかにアメリカ人が描いたと思われる「日本的」マンガももちろんありましたが、日本人が見ればすぐにわかってしまいます。

投稿者 umemuro : 22:46
2004年03月06日
Tufts日記(2)
Tufts へ行った帰り、MITの近くのCambridgeのモールへ足を伸ばしてうろうろしてきました。
第一の目的は、headphone を買うこと。私は iPod用にSonyの密閉型インナーイヤーレシーバー MDR-EX71を使っていたのですが、今回の旅行の直前に片チャンネルが死んでしまいました。音にはとても満足していたので、同じものをもう一度買う事も考えたのですが、ちょうど折りも折りApple が iPod In-Ear Headphones を発売していたので、値段も同じくらいだしひとつ買ってみますか、ということになり、このモールにある AppleStoreへ足を運んだのでした。(ちなみに日本の AppleStoreへ行かなかったのは、$39の方が安いと思ったので...)
さて買ってきて早速試してみたのですが、なんか耳に合わないし、密閉度も低くて音が安っぽい。ついてきた3つのサイズのイアーピースをすべて試しても、すぐ耳からずり落ちる。???...多分、Sonyのイアーピースが耳栓みたいなずんぐりした形状をしているのに対し、Appleのは円錐の頂点を内側に入れるような形状なので、必然的に外側にずれてしまうのでしょう。
あーあ、銭失いかぁ…結局Sonyのを買い直すのかなあ…とがっかりしていたとき、ふと思いつきました。もしかして、これってSonyのOEM?? ってことは、イアーピースそのままついたりして... で、MDR-EX71のイアーピースを外してAppleのにつけたら、ぴったり!全然ずりおちない上に、音もさっきとは見違える(聞き違える)くらい良い。オリジナルのMDR-EX71より良いかも!!!
ちなみに元々持っていたSonyのは黒。Appleのは当然のことながら白。というわけで、これからしばらくは妙な白黒レシーバーとつきあうことになったのでした。


投稿者 umemuro : 22:59
2004年03月04日
Tufts日記(1)
先週、アメリカの Tufts University を訪問し、lecuter をするとともに研究についての discussion をする機会を得ました。本当は現地からこの日記を update しようと思っていたんですが、留守中に東京のサーバがなぜか落ちてしまったので、今こうして帰国後書いています。
海外の大学を訪れる時はいつもですが、現地の先生方、そして大学院生の皆さんと話すのは大変刺激になります。それはもちろん私の話に浴びせてくるたくさんの質問であり、自分たちの研究について話す時の(とりわけ大学院生の)目の輝きであるのですが、何より、私たちとは違う大学の文化がそこにあり、しかも彼らがそれをとても大切にしている事に接する時、何よりも喜びを感じ、帰ってから新鮮な気持ちで研究に勤しもうと言う気持ちにさせてくれるのです。


投稿者 umemuro : 21:59