2010年03月01日

キセキ

今年も卒業論文のシーズンが終わりました。私たちの研究室の4年生も全員研究発表の結果合格をもらい、あとは卒業を待つだけとなりました。

以前にも書きましたが私は研究室のゼミで学生と議論するのが何よりも好きです。そして議論するたびに東工大の学生は優秀だと思うのですが、今年度私の研究室に居た4人の4年生は特別でした。

彼らはひとりひとり全く性格が違い、おそらく方向性も全く違います。良くしゃべる人も居れば割と静かな人も居ます。感性で語る人も入れば緻密なデータと論理で攻める人もいます。カミソリのような感性を持つ人も居れば熱いエネルギーで語る人も居ます。勢いで仕事をする人も居れば、計画的で緻密な仕事をする人も居ます。プログラムの達人も居ればパフォーマンスの達人も居ます。

そんな一見バラバラに見える4人が、一度同じ机を囲んで議論の席に着くと、実に熱い議論を際限なく展開します。とても仲が良くて、それでいて同時に他のメンバーには負けたくない、置いて行かれたくない、という健全な競争心も見え隠れします。彼らに議論を始めさせると私の話す暇がないくらいで、予定通りにゼミが終わらない事もざらです。しかし、あまり困ったことにはならないのです。なぜかというとだいたい彼らがお互いに指摘し合うことは的確で、私が話す必要がないのです。それに彼らのエネルギーに満ちた発想は、とても私と誰かひとりが1対1で話していた時には出て来ないであろう斬新なアイディアにまで到達するのです。困る事はせいぜい昼食の時間が短くなる事くらいです。

彼らが、この4人の絆を大切にしてくれて、10年後、20年後、また4人一緒に仕事をしたら、日本だって世界だって動かせるのではないか。私は本気でそう思っています。そんな4人が1年間この研究室にいて、何十時間やったかわからない議論を一緒にできた奇跡。しかしそれももう終わりです。彼らは4月から、ある意味彼ららしく、4人とも全く違う道を歩み始めるのです。

Party is over. 私はここで彼らがここにいた軌跡である卒業論文を本棚にしまい、次のメンバーを心待ちにしています。彼ら4人がいつまでもお互いの縁を大切にしてくれる事を祈りながら。


Yamagishi Nishito Matsuo Suzuki

投稿者 umemuro : 21:55 | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月15日

「譲られ上手」

ヨーロッパでは、レディー・ファーストの国なのでエレベータなどで女性と一緒になった時は乗り降りをまず女性に譲る。そのとき思う事は、こちらの女性は実に譲られ上手だな、ということである。もちろんレディー・ファーストの文化が定着しているから、何の戸惑いも無く先に降りる。しかし必ず「Thank you.」とひとこと言ったり、こちらを一瞥して微笑んで会釈をしたりするのをまず忘れない。順番を先に譲る、あるいはドアを開けて待つ、ということが、変な言い方であるがどんなに「大変な」ことかということをきちんとわかっているから、それに対する返礼を忘れない。だからこちらも笑顔で譲れるし、また譲ろうと思う。「レディー・ファースト」とは単に順番の取り決めではなく、譲られる人が譲る人の心をきちんと受け止め、それに応える文化、その全体を指すという事がよくわかる。ヨーロッパの成熟した社会で長い歴史をかけて作られた文化であろう。

翻って日本に目を向ける。そもそも我先にドアを目指す人が多い中で先を譲られるなんて事自体が無い、という見方もあるが、エレベータで一緒になった人(男女を問わず)に順番を譲ってみても、「至極当然」という顔で何も言わずにまっすぐ降りる人もいれば、戸惑ってやはり無言で降りる人も居る。戸惑った人を前にすると、譲られる事に慣れていないんだなぁ、レディー・ファーストの文化が日本では定着していないしなぁ、なんてことを思ってため息をついて終わりだが、「至極当然」組と一緒になると、まずかわいそうな人たちだなあ、と思い、一方でもう二度と譲るもんかという気持ちになる。(一方で、お互い顔見知りの日本人、特に仕事上の関係があり何かしらの上下関係が存在する人々が鉢合わせになると、いつまでもお互いに「お先にどうぞ」「いやどうぞどうぞ」が続くのは見方によっては非常に滑稽である。そしてこういう場面でいつも先を譲られる「上の人」が、街に出て一人の市民になってもいつも道を譲られて当然と思っているんだろうな、と思う。かわいそうな人々である。)

非常に些細な事ではあるが、何かをしてもらう時に、その背後にある、それをしてくれた人の心をきちんと理解し、受け止め、それに対して返礼をする。それがあるかないかが、レディー・ファーストのみならず、世の中のありとあらゆる人のインタラクション、そしてサービスを心地良いものとして育て定着させるために必要なことなのではないかと、レディー・ファーストの国で思う。

Oulu, Finland

投稿者 umemuro : 16:41 | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年01月13日

ヒゲが伸びると筆が進む

たとえば作家かだれかが、「自分はヒゲが伸びると、筆が進むんだ」と言ったとする。

それは「地球の裏側で蝶が羽ばたくと…」の類いではなく、本当にその人のヒゲの長さを観察して、さらにその人の仕事量を見ることが出来たとして、その二つの観察を突き合わせると、どうやら本当にヒゲが伸びている時には文章をたくさん書くらしい、ということがわかったとする。

「どうやら本当にヒゲが伸びた時には、筆が進むらしい。」そこまでは問題ない。

ところが、そこから変なことを言い出す人がたまに居る。

「つまりこの作家はヒゲが伸びると、鏡で顔を見るたびに自分が作家として風格があると自信を持つようになり、だから筆が進むようになることがわかった。」とか、

「ヒゲがのびると男性ホルモンの×××の分泌量が増え、それが脳の△△△を刺激して創作活動にプラスに働くようになることが明らかになった。」とか。

正解は、「実はその作家は、公の場に出る必要がなく、自分の家に籠っていられる間はヒゲを剃らない。そして、どこへも出かけず誰とも会わず、家でまとまった時間一人で集中している時に、一番文章の創作に専念できる」というようなものだったりする。

つまり、最初の観察は、共通の原因である「公の場に出ない・誰にも会わない」という事実の結果として出てくる、二つの現象を観測していたにすぎない。共通の原因から生じるのだから、当然相関関係は存在する。問題は、相関関係が観測されたにすぎない2つの事象に、いつの間にか因果関係を勝手に作り上げて、あたかもその因果関係の存在が証明されたかのごとく語っていることである。この例で見られるように、相関関係と因果関係は全く異なる。この場合は「ヒゲ」も「筆が進む」のも、両方とも結果なのである。

「なにをたいしたこともないことを偉そうに」と思う人が多いかもしれない。しかし、実際に身の回りを見ると、それが研究論文であれどこかの会社の調査であれ、本質的にこれと全く同じことをしている、すなわち相関しか明らかにしていないのに、なぜかさも因果関係の存在を証明したかのごとく主張するケースが多々あるのがヒジョーに気になる今日この頃である。

以上、よくある統計分析にまつわる教訓のふりをして、私的な日記を書いてみました。:->

投稿者 umemuro : 00:02 | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年01月10日

否定する

人はなぜ他者を否定するのだろう?


否定することは良いところを認めるより簡単だから?


否定することによって逆に自分の価値をアピールしようとしている?
「○○を否定する(センスのいい/ものがよく見えている/勇気のある/ユニークな考えを持つ)自分」というような。


自分の価値システムと違うものを受け入れる(べく自分に納得させるようにあれこれ説明を考える)と認知負荷が高いから?


自分に信念があって、信念と違うものは「正しくない」から?
自分の信念と違うものを否定せずに存在を受け入れると、今まで「正しい」と信じて来た自分の信念を否定されたように感じるから?


自分と異質なものを遠ざけるのは本能?


経験的にひとつ確からしいのは、
「否定したこと」が客観的に見て合理的で正しいケースは、実は稀であるということ。
否定するのは、合理的な理性ではなくて、感情のはたらき?


…なんだ…自分の分野じゃないか…

投稿者 umemuro : 09:21 | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年01月06日

書く

書くことはつらい。

頭をひねり出さなくてはならないからつらい。
それ以前に、私の場合、書く「気分」にまで持って行く迄の段取りが大変。
それでいて締め切りにも追われるからつらい。
でも誰かが言った。「締め切りがなかったら、永遠にこれは書かないでしょう?」
多分それは正しい。


書くことは楽しい。

いったん「乗って」しまうと、つらいのだけれども、楽しい。
それは、自分の頭の中で長い時間熟成されて、いいかげん糸を引き始めたような考えの固まりが、
文章というきれいな衣をまとって目の前に現れるから、楽しい。
それは、変なたとえだが、排泄の快楽と通じる物があるかもしれない。


書くことは、やっぱりつらい。

あたまの中で大事に大事にあたためておいた間は、何かすごくすごいことを考えているような気がして
我ながら自信があったりするのだけど、
いざ文章の形にしてみると、考えがたりないところが見えて来たり、どうしてもうまく言葉で表現できなかったりして、
なんだか急につまらない考えのような気がして来て、一気に不安になったりする。


それでもやっぱり、楽しい。

なんだかいろいろあってよくわからないし、すごく疲れるのも事実なんだけど、
でも書いている間は、すごく充実した時間を過ごしている気持ちになるのも事実。


そんなわけで、正月早々(とういうより年末からずっと)、書いています。

投稿者 umemuro : 01:50 | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月18日

不機嫌そうに怒った顔をしているのは簡単だ。

文句を言おうと思えば文句を付ける相手は世の中に無尽蔵にあるし、だいたい他者を批判するのは良い点を認めるよりずっと簡単なのだ。(なんでもいい。目の前にあるものを一つ選んで「ケチをつけて」見てほしい。実に簡単に不平不満を列挙できる事に気がつくはず。)
実際、鏡に写る自分の顔をじっくり見ていると、何にも考えていないいわゆる自分のニュートラルな顔が、いかにぶすっとした顔になっているのかに気がついてびっくりする。
それに、不機嫌な顔をしているとだいたい周囲の人は触らないようにほっておいてくれる。誰とも関わりを持たずに、自分だけに籠っていられる。楽であるに違いない。

絶えず微笑んでいる方が実はずっと難しい。

お笑いなど意図して笑うようにしむけられた状況を除いて、まず心がある程度穏やかで平和でないと笑えない。
それに自分の環境 -- 目の前に居る人であったり、その場所だったり、もっと抽象的に自分の置かれている状況だったり -- を自分がある程度好意的に捉えていないと、やはり笑えない。
つまり自分のこころの状態とつねに向き合って、対話をしていないと、微笑む事はできないんじゃないかと思う。
それににこやかに微笑んでいるということは、周囲に対して自分はオープンであるというメッセージを送っている事だとも思う。だから、例えば他の人が語りかけて来る事に対して「Welcome!」と言える準備ができていなきゃならない。自分だけのことを考えているよりは、きっと大変だろう。

でも不機嫌な顔をしている人よりは、微笑んでいる人の方が、確実に周りを幸せにする、と思う。
だから、できるだけ微笑んでいる時間が長い人でいよう。鏡を見ているとそんなことを思ったりする。

水島新司先生の「ドカベン」に微笑三太郎というキャラクターが居て、連載当時彼の座右の銘は「常に心に微笑みを」だと紹介されていた気がする。
今考えてみれば彼はものすごく難しい discipline を自分に課していたんだな、と思う。

(追記)
実は日常鏡をのぞく時間というのはそんなに長くないし、その長くない時間には必ず何か用がある。ひげを剃ってみたりとか、歯を磨いてみたりとか。
だから、たまに髪を切りに行って、文字通り手も足も出ない状態で、自分では何もすることなくただただ鏡に写った自分の顔をしげしげとながめる、なんていう時間は実はめったに無い特殊な経験なのだ。
だから、こんなことを考えついたりもする。というわけで思いついた事を書き留めてみました。

投稿者 umemuro : 19:19 | コメント (0) | トラックバック (0)